人気に乏しい路上である。
ふと目についた自販機から、思えば久々に缶コーヒーを買った。コインとボタンを押し込めば程もなくして商品が落ちてくる。取り出し口は冷たいも熱いも同じで、火傷に気を付けるための大した配慮などというのもないのだが、王泥喜の指先ははじめから慎重にして缶を取り出した。
触れればひどく熱いのだということは、よく解っている。
王泥喜はコーヒーの煎れ方を知っていた。
成歩堂なんでも事務所、ひとまず胡散臭い名称ではあるが確かに実在する彼の所属事務所にて、コーヒーを煎れるのは王泥喜の役目である。気が付けばそういうことになっていた。紅茶であろうが緑茶であろうが、そうそう変わるわけでもない。
まずあの親子は事務所の中を散らかしっぱなしにしがちであるので、王泥喜ができるところから片付けていたら、いつの間にか台所仕事の類まで任されてしまっていたのだ。
王泥喜はコーヒーの煎れ方を知っている。放っておけば勝手に散らかる事務所という名の環境を、整頓する術も知っている。熱い缶コーヒーへ口付けながらに、ぼんやりと思った。
芸能事務所と法律事務所とではわけが違うというのも解る。だが、あの事務所はもう少しばかり片付くことを憶えた方がいい。正確に言えば、住人誰もが片付けるということを習慣にもっていくべきなのだ。整頓された状態がデフォルトとしてセーブされるようになれば、やがてはどんなに散らかろうとも、そこへ戻っていくことになる。
王泥喜は、きちりと片付いて整頓された事務所の姿というものを知っていた。そこにはコーヒーひとつにもさりげなくこだわるような主があったものだ。煎れ方はもちろんのことポットからカップなどの食器に至るまで、主の考えることが行き届いていた。
そこにおいて、コーヒーの煎れ方を習った。片付けのやり方にしても習った。王泥喜はその空間にあって客人ではなかった。招き入れられたままの、住人のひとりであった。
それも今ではかつてのことになる。
主は部屋から去り消えた。主を失ってしまった部屋は元の部屋としての機能を持たず、そうしてやがては、残された王泥喜も部屋から去った。
そんな王泥喜を新たに迎え入れてくれたのが、成歩堂の事務所であったのだ。
常に何かと散らかっている。せっかく揃ったコーヒーメーカーやら食器の類も、色鮮やかな手品道具の数々に重なり負けていた。そうしたものを放っておけなくて整えて、整えて、任されるようにまでなり今に至る。
そして王泥喜はもう既に、とうに理解していた。どんなに片付けてみようが、同じようにしてコーヒーを煎れようが、かつて王泥喜にそれらを教えたあの事務所はもうどこにも存在していない。
その引き金をひいたのは、結果的には王泥喜自身であった。
コーヒーは未だに熱を保っている。両手にじんわりとしたそれを感じながらも王泥喜は、ぼんやり空を見上げたままでいた。
どこまでも曇りの灰色に染められている。それでも天気予報によれば、雨のくる心配はないのだという。もっともまったく可能性の有りえぬわけではなかった。
信じられないような出来事が唐突に降り掛かってくる事態というのは、王泥喜にとって決してまったく無縁のものでもない。
とはいえ今には急ぎの用件などを持たないのだ。だからこそ、何とはなしに自販機の世話にもなった。だからというわけではないが、たった今の時刻すらを忘れてしまいそうになる。
疲れているのかもしれない。
緩く目を閉じて『あったかい』缶コーヒーを再び、喉の奥にまで流し込もうとした。
「やあ」
「!」
そこにきていきなり肩を弾かれたものであるから、堪らない。
いくら唐突な出来事というものに慣れ親しんでみようとも、予告なき触覚に過剰な反応を零してしまうのはどうしても仕方のないことだろう。あやうく缶を取り落としそうになった。
「そんなにびっくり跳ねなくたっていいだろう?」
「え、あ、が、牙琉……検事! あ、あなっ」
振り向けばそこにて、王泥喜よりも背の高い男が片手を振っている。
牙琉響也であった。刑事裁判にもなれば弁護士の王泥喜とは向かい合う立場にある、現役の検事。
場所は天下の公道であるから彼が通りすがろうというのも決して無理ではないのだが、しかしどんなにあり得るとはいえ、王泥喜という男はそれを無反応にして受け止めきれるほどの余裕の持ち主でもない。
「そんなに驚かなくたって」
「驚きますよ!」
「オデコ君なだけに」
「普通にオドロキくんなだけにって言ってくださいよ! ほら、コーヒー持ってるんですから、危ないじゃないですか」
開け放しの缶を示すと響也が、へぇと呟いて覗き込んでくる。
「自販機のコーヒーだね。僕はあんまり飲まないけど」
「オレは飲むんです」
「そう、知ってるかい? 初めて缶コーヒーを発売したのは日本の会社なんだってさ。意外に思うかもしれないが、アメリカの方じゃあんまり普及してないんだ」
「それは……初めて知りましたし確かに意外でしたけど、あんたどうしてここに」
見上げねば視線を合わせられない、身長の違いをやや複雑に感じながらも、王泥喜は尋ねずにはいられなかった。そうでなければ響也の方はそれを省いてしまったに違いない。
「たまたま辺りを通ってたんだ。悪いかな」
「悪くはないですけど」
「そしたらオデコ君がぼーっとしてたから、起こしてあげたんだよ」
「寝てませんよ」
「寝ちゃいそうだった」
「寝ませんよ!」
にこにこと微笑む響也は、明らかにからかいの態度でいる。腹の立つほどに整った顔立ちである。背が高ければ足もすらりと長い。それというのも無理はなく、彼は現役の検事にありながら、更には現役の芸能人でもあるらしかった。
(……いいのか? そういうの)
本来ならば国が許さないような気もするのだが、もしかすればアメリカの法においては決して問題ではないのだろうか。
(ここ、日本なんだけどな)
そのアメリカで、日本でいうところの高校生にあたる年齢にして検事になったという彼は、王泥喜にとってそれこそ別世界にでもあるかのように感じられてしまう対象であった。そのうえ同時に芸能活動までもをこなしているという。どこぞの少女漫画か何かにでも出てきてしまいそうだ。
現役で司法試験に通った王泥喜にしても、客観的に見れば充分に優秀な部類に入るのではあろうが、少なくとも王泥喜自身は自分のことを一般人として捉えていた。だから牙琉響也というのは、まるで絵にでも描いたような、別世界の存在であるはずなのだ。
本来ならば。
そこまでに王泥喜は、思考を断ち切った。
「…………あー、ええと。コーヒー、冷めちゃうとあれなんで、ちょっと失礼します」
手元の缶をちらりと見てから響也の方へ視線を上げると、飲んでしまっても構わないだろうかという問いかけを汲み取ってくれたようで、どうぞ、と促してくる。
持ち上げ傾けて流し込む。ひとまずはそれで、意識を改め覚ますこともできるだろう。そう考えて、ぐいと一息に呑み込んでしまおうとした。
そこまではよかった。ところが、冷めかけたはずのコーヒーはしかし、底の方にもなると未だに王泥喜の想像を超えた熱を保っていたのである。「……! ……ッ!!」
咽せてしまいこそはしなかったものの、予想外の熱を無理矢理に呑み込む羽目に至った喉は、やや数秒ほど呼吸を止めた。結果として王泥喜の全身もごほり、と小さく咳き込む。
吐き出すような気配がなくとも苦しそうには見えたのであろう、響也がその目を見開いて王泥喜と並ぶほどにまでしゃがんできた。
「オデコ君? 咽せたのかい」
「い、いえ……思ってたより、あ。熱くて」
でも大丈夫です、とまでしっかりと言い切った王泥喜の声帯は、取りあえずは正常に機能している。しかし放たれたその声は、どうしても幾らか弱々しくにあった。
「ちょっと、今のは僕の方が驚かされちゃったね」
「……大丈夫です」
「声に元気がないよ」
呆れたような、とはいえ心遣うようにも聞こえる、どこか優しい響也の声色が王泥喜の耳をうつ。
ゆったりとして聴覚に心地よい、響き。王泥喜にはよく解らないのだが、さすがに百万だか何だかという人数の心を掴んできただけのことはあるようだ。
「せっかく、やけによく通るんだっていうのに。大事にしないとね」
「オレ、素人ですよ……検事なんてそういうの、プロでしょう」
「そうだね。でも僕はオデコ君の声、いいと思うんだけどな。それなりに」
「……そりゃ」
確かに通るようにはしてある。
そもそも、そうしたものだと考えてきたので王泥喜は、法廷に立つようになるずっと前から早朝に起きては発声の練習を繰り返してきた。声を出すことについては元より決して不得手でなかった。たまに加減を忘れてしまうようなこともあるのだが、とにかく王泥喜にとっては気持ちのいいことであるのにも間違いはない。
そうして思えばあの日、においても、大切な晴れの舞台であったというのに、まさに加減を忘れて喉を痛めかけてしまっていた。
弁護士としての初の法廷であった。依頼人はひとつの憧れの対象とも言えようそんな男で、それが今ではひとりの上司にあたるのであるが、とにかく緊張感の方にしても半端なものではなかった。
(それが、それで…… !)
思い出す。(オレはその法廷で)
寧ろまるで依頼者たる人物に助けられるかのようにもして、自分の隣に立っていた、他ならぬ師を告発した。
そうして彼との居場所も失われた。もとい、失ったのだ。
それから暫くして、王泥喜にとってはその存在すらも知ることのなかった、師の弟であるという男が目の前に表れた。男は現役の検事であった。
まるで絵にでも描いたような、今も、この目の前にある。
私は君のその声も悪くはないと思うのですけれどね。
でも、程々にしておきなさい。
大事にしなければ本当に痛めてしまいますよ。
「……ありがとうございます」
王泥喜は焦点のぼやけた言葉によって、どこかへと呟いて返した。
缶を握る片手指が緩くながらにも硬直する。時刻の感覚、今ここに在るという感覚が、またいずこかへと離れていってしまうかのごとくに感じられた。
「……オデコ君?」
そんな風にして呼ばないでください。きちんと名前で呼んでください。
せめて王泥喜くんと呼んでください。それがオレの名前ですから、呼んでください。
王泥喜くんと呼んでください。
だめだ。
やっぱり呼ばないでください。
同じように。違うふうに。
「ありがとうございます……大丈夫、です」
「どうもぼんやりしてるね。ちょっと」
「大丈夫です、から」
繰り返す言葉というのは呪文にも似ている。歌うかのごとくに口に出す。
(オレは大丈夫だ)
片付くものだと解っていれば、それできっと片付けることもできる。同じようにして『大丈夫』であると思えばきっと『大丈夫』にまで至れるはずなのだ。
「大丈夫です……せん、せ」
「!」
そして続いたその声に、目を見開いたのは響也の方である。
当の王泥喜は遅れて気付くと慌てて口を閉じた。自身の感覚にも勝り、記憶と現実との交錯にやられていたらしい。
思えば大学を出て以降、決して長い期間ではなかったものの、王泥喜の生活の大半を占めていた存在。
響也もまた、そうして示すが誰のことであるかを知っている。知っているのだろう。少なくともああした事件があって、あってしまったからこそに、ごく新人もいいところである王泥喜の名が彼の耳にまでも届いたという筈なのだ。
「す、すみません。あの」
口元を引き結びどうにも複雑そうな表情をしている響也を前にして、王泥喜は暫しに惑った。伝わってしまったものはもう仕方がない。何を言おうにしても結局はその以前に、受け流してくれるようにと祈るほかがない。
「疲れてるみたいで、その、もう失礼しますんで!」
「ちょ、オデコくっ……」
「スイマセンでしたッ! じゃあ!」
また法廷で、だのと洒落た付け加えなどをできるはずもなく王泥喜は走った。
事実切っ掛けともなったしかし罪なき男、彼によく似た髪型をした、遠くて近い影を置き去りにして、逃げ出したかの様にして走った。
正しくして『逃げる』わけではないのだ。
彼は彼であって決して、彼ではない。
握ったままでいた空き缶が今度こそ、ひどく冷たいようにも感じられてくる。思い出したかったのだろう。それだから思い出さずにはいられなかった。それを長くに押さえつけてきたがために、このようなことにもなったのだ。
彼と彼とは繋がっている。
それなのに、それだからこそ、王泥喜は彼の前にあってああして取り乱してはならなかった。
少なくとも王泥喜自身はただそのように後悔をしてしまったもので、思わずに歯を食いしばる。きれる吐息が程もなくしてそれをこじ開けた。
そして両足は思わなくとも、真っ直ぐに事務所へと向かっていた。自宅の方ではない。まずは『事務所』まで戻ってそこに、なさねばならないことが幾らでも残っている。それからあの場所ではせめて、思い出した何かも思い出してしまった何かも、決して匂わせてはならない。
コーヒーの空き缶を片手に薄灰色の空の下、王泥喜の足は我武者らにして駆けて行った。
取り残された響也の唇が、自然として開く。目にも耳にもする者はない。淡々として稼働する自販機のみが光る、寂れた道であった。
そうでありながらどうしてか、彼、は狙ったようにして視界へ入ってきたのだ。
「……アニキ」
あの、兄のたった一人の弟子であったという。
互いに歳を重ねるごと、段々と近寄り難くなっていった兄が、自身のテリトリーに受け入れた存在。彼の初めての法廷にも出発から同行し、そしてその隣に堂々と立っていたのだそうだ。
そして兄は告発された。暴かれた罪は真実であるとして認められ、響也の知らぬところで兄は、獄中へと送られた。
そのうえに残された、師である兄を告発した身のその弟子は、やがて奇しくも二度目の法廷で響也と向かい合う状況に至ったのだ。
彼は法廷に確かな真実をうたった。よく通る、真っ直ぐなその魂を満ちあふれさせたような声だった。(……君は子供のままでもよかったのにね)
駆け去っていくその背中を蘇らせながら、ふと空を見上げる。たとえ前方を幾ら見詰めようとも、そこにもう彼の姿はないのである。だからといって決して飛んで行ってしまったわけでもないのだが。
空は雨こそ降らさぬものの、どこまでも薄灰色の雲をかけていた。
(傷付くための何にも、気付かなければよかったのに)
そうすれば彼に、あんな様子の起こされる必要も無かったであろうか。
しかしそうすれば彼は、兄の唯一の弟子としてのまま響也と出会うことになっていたのかも知れない。もしくは出会うことのないままに時が過ぎたかも知れなかった。
その領域を頑なに守り続ける男であった兄が、招き入れたもの。その兄を告発するにまで至った彼。
彼の身はいま、響也も知らぬわけではない、とある男のもとに在るのだという。
(慰めてくれる? あいつがあの子を? 悲しんでたらそこから救ってくれるっていうのか?)
ふと考えてみれば思わずに苛立った。
法廷に再び、今度は被告人として現れたという『あの男』は、まるで掴みどころのないような人物になっていたのだと聞く。そして彼が兄を告発するに至るまでにも、あの男自身の証言がそれは大きく関わっていたと言うのだ。
男は、師を告発することによってそれまでの立場を失ってしまった彼を、当然のようにして引き取った。
(……王泥喜、法介)
後の彼らの間柄については、響也が深くを知るはずもない。そうした当然のことがどうしてだか、今はひどく歯がゆく感じられる。
(オデコ君……)
せめて慰めるかのように撫でてでもやれればよかっただろうか。そうしたならば例え誤魔化しであったとしても、いつもの様に、うたう余裕を見せてくれたであろうか。
それとも、更なる狼狽をして見せようものか。
(僕はあのひとじゃないよ)
たとえ霧人と重ねられようとも、響也は決して霧人にはなれない。
(僕は響也だ)
かつて牙琉霧人という男を先生とうたったその声によって、今では牙琉響也のことを、検事として呼ぶ。(だから……)
雲は未だに晴れないままにある。余すところなく、浮かんでいる。
まるで深く立ち籠める霧のようでもあった。響くすべての音に重ねて、かき消してしまうかのように思われた。また彼のうたを聴いていたいと、そう思った。
次に出会う機会にこそは、そのうたうところを見てやりたい。それには法廷が良いのだろう。少なくとも今のところ、彼と自分とのために用意されし繋ぐ舞台は、あの決して広くはない『庭』なのだ。
そうでなければ、そこでなくとも構わない。
とにかく、ただ、本当はすぐにでも、彼のうたっているところを見たかった。そのような気分になっていた。真っ直ぐに、大きくにだ。
(……せめて)
そうでもなければ、せめて。
今、どこかでかなしみではないものを歌っていてくれればいいのにと、そんな風にして考える。