「結婚してくれるなら」ひどく馬鹿にした台詞であると自分自身でも感じていたし事実、どこか冗談のつもりで口にしたようなものだ。
それなのに彼もまたひどく無邪気にして、この手を取った。取って、しまった。
(幸せにするから、なんて)
それこそまるで冗談のようなことを、返してきながらに。
『オレの可愛い堕天使ちゃん』。
わざと言い間違えているわけでもないのだろうが、彼はそんな言いざまによって美波のことを褒め讃える。他にもペテン師ちゃんだのと言ってくるのだが、それもまたやはり褒め讃えているつもりらしい。
そういった言葉の使い間違いを聞くたび、美波は心の内で苦笑いをしているのだが、とにかく大変に持ち上げられていることだけは間違いなくに解っていた。悪い気はしなかった。
大きな一家の跡取りといえども、甘やかされて育ってきたお坊ちゃんである。
物騒なことは決して得手でもないらしい。甘いものが好きであるようだ。彼だけを見れば誰も、小刀の使い道や銃の持ち方を知っている、そういう立場の少年だとは考えないだろう。調子の良い笑顔は彼をより幼くして見せる。
美波は彼から、様々な話を耳にした。
家のこと。家の変化のこと、彼自身はそれに反対していること。自分たちのこれからの理想。そして美波はそのすべてに頷き、頷きながら、彼に対して語ることをしなかった。美波は知っている。彼、滝太の、どうしようもない運命を知っている。
しかし滝太自身が知らない。自分の体がどうなってしまっているのか、その針の進んでいく音を知らぬままでいる。
ここから連れ出してやると言う彼に、結婚してくれるならと返すと、そうしよう、と続けられた。
幸せにするから、と。まるでそれが運命であったかのように告げられた。
美波はそのとき既に、それが運命にはなり得ぬであろうことを知っていた。約束も、指輪も、そして語られる理想も、いずれはすべて溶けてしまうのだ。
彼自身とともに。滝太の中の針が止まるとき、彼が誓った、渡した、言葉にしたすべては、ともにそこから無くなってしまう。
そして置いていかれた哀れな美波だけが残るのだ。彼に残された時間を知っていながら、それでいて知らないふりをする、哀れな天使だけが残るのだ。
一家の内にて美波は早くから、それは奥方のように扱われた。
まず滝太自らがそうして接しためである。彼は美波に似合うものをと見繕っては贈り、笑顔をともに贈り、そして言葉を贈った。本で読んできたかのような口説き文句は必ずどこかしらが間違っていて、それを見付けてはこっそり笑っておくのが、いつの間にか美波の楽しみになっていた。
(そうよ)
しかしそれらが実際には間違っていない。
(私は堕天使だし)
それでも彼の中では確かに、美波こそが天使であるのだ。
(それにペテン師よ)
何も知らないから。
滝太は自分の中にまわる時計を、残された目盛りを、それらが隠されているということすらも何も解らないでいるのだ。
だからこそ美波のことを天使として見ている。
世界でたった二人、彼の中に仕舞い込まれたままの爆弾を知っていながら、保身のために黙ったままでいる人間達のその片割れ。そんな美波を幸せにすると言い切り、同じ理想を歩くつもりでいる。
(ばかじゃない)(死んでしまうあんたが、どうやって私を幸せに連れていくの)
かわいそうな坊や。
むしろ、逆だというのに。
残り幾らかを数えるようになってしまった時間、彼を幸せな男にしているのは美波だ。あの病室から連れ出された彼の一生を、幸せにしようというのは美波の方なのだ。
そして幸せなままにいずれ終わるのだろう。それが確かに叶おうならば、結果として美波は天使であるのかもしれない。一年にも満たない。
美波は残された彼のための時間に、身体ごと飛び込んでやった。彼の誓いを受け、貢ぎを受け、言葉を受けた。愛には微笑みで返した。言い返すことはしなかった。
『堕天使ちゃん』で『ペテン師ちゃん』。なんの悪気もなくして、ずれた言葉で自分のことをただ褒め讃える少年を、美波は笑って抱き締めた。
(幸せにね)
もう、数えるほどしかないのだから。
(幸せでいらっしゃい)
それが幸せであると言うのなら、私が幸せにしてあげるから、幸せでいさせてあげるから、幸せでいらっしゃい。
幸せでいて、あげるから。
夢のようにして巡ったそれらは、いわゆる走馬灯であったのかもしれない。
けれども美波は生きていた。身体の何処もがひどく痛んでいたが、死に至るものはどうやら無かった。この状況下で気付かれなかったのだ。幸いであったと言って間違いはない。
それなのに。(滝太く……!)
銃を奪ってまでやったはずがそれなのに、とどまり方を知らない彼は、小刀をかかえて歩いて来てしまった。
それだからあんな風に撃たれることにもなるというのだ。美波の身体が、先程には境目を彷徨いかけたはずのその身体が、まるで水を得たように起き上がった。
知らない誰かの場を制止する叫びが聞こえる。どうやらそこに第三者までが在るようだ。
(……かまうものか!)
昂る思考が沸き立ち白く霞んだが、身体の方の動きはとどまらなかった。美波の方まで、もう、とどまり方を忘れていた。
あんた天使になるんでしょう。そんなもの持っていてどうするの。
天使になるのは私じゃないのあんたなのよ。
もう決まってるの仕方がないの教えてあげなかったけど、本当にあと少しなの。
ここから連れ出して。
ここから連れ出してあげる。
結婚してくれるなら。
結婚してあげるから。
幸せにしてくれるの。
幸せにしてあげる。
それが幸せだっていうなら、あなたの大好きな甘いもの、残っているだけ、毎日あげる。
だって私はあなたの堕天使だもの。天使は、笑っていればいい。
美波は死なず、そして滝太も生きたままでいた。
とはいえ、残された時間がどれほどにあるというのだろう。あれから何ヶ月が過ぎてきただろうか。
坊やの笑顔を最後にして長き走馬灯は終い、そして美波をあちらではなく、完全にこちらへと引き戻した。その日に起こった事ごとが連鎖してやがて大きな騒ぎに至るのに、それこそ半日もかからなかった。
滝太は走った。
ただ、ただ走っていた。頭の中が真っ白になりかけている。それでいても足というのはよく動くものだ。
(俺がやった)
自分がやった。自分が殺したのだ。だからこそ、走る。走らなくてはならない。急がなくてはならない。急いで、帰らなくてはならない。
例えお務めをすることになろうとも、決してたいしたことではない。ただ、滝太には帰るべき場所がある。天使のところにまで一度は帰り着かねばならないのだ。
(俺がやった!)
あれは、違うのだ。
滝太は『天使』を見ていない。
もう長い間、逢えていないような気がする。だからこそ早い内に彼女と逢いたかった。天使との再会を果たしておきたかった。
何も見ていない。滝太はどんな瞬間にあたっても決して何も見てはいない。
(……俺が撃った、俺が殺した、俺が、俺が、やったんだッ!)
そして滝太は走った。
ひたすらに駆け走りながらのその脳裏には少しずつ、愛しい天使の優しき笑顔が満ちあふれていった。