さらさらと指触りの良いカードは、今晩あけたばかりの新品である。
表面にはそれぞれのマーク、裏面には青が刻み込まれている。先代は早過ぎる引退を余儀なくされた。イカサマがあったに違いないと激昂した負け客が、ハートのエースの真ん中を折り曲げてしまったのだ。
勝ちへの導き札に可哀想なことを。成歩堂は苦笑いにも哀れんだものであったが、痕のついたカードを欠いて、残ったものはそれはもうひと揃いではない。それにしてもカードというのは、全枚ぴったりとくっ付き合ったままに包装されている。始めの内には互い擦れて、掻き混ぜられることを嫌がるものだ。馴染まぬ間はそれがどうしても面倒くさい。両手の指先に染み付いたはずのシャッフルが、たった今においてぎこちないのはそうしたわけだ。
それでもやがては重ねたカードをテーブルに揃えて、ピアノを弾けないピアニストは一息をついた。
(今日はもう仕舞いかな)
夜はとうに更けている。バーのステージでマジシャンをしている娘も、今頃は帰って寝床に入ろうという頃だろう。本来ならばボルハチの夜はまだもう少し長い。が、しかしながら成歩堂の客というのはいずれも誰も気まぐれで、また、決まったようにして来るものでもなかった。
ピアノを弾けないピアニスト。無敗のギャンブラー。影ある部屋の主。
よく、出来ているものだと自らでも思う。元より成歩堂はそうした一芸などを持たなかった。かつて芸術学部に属していたこともあったが、音楽というよりは演劇の方にいた。とはいえそちらもそちらにして、ポーカーというステージの上に役立っていないこともないのかも知れない。
ポーカーには勝てる。器用でなくとも、勝てる。かつてより隠し持ったままの『勾玉』の力を借りるまでもない。娘の力を借りることならばあった。
いつの間にやらに相手を読み取れるようになり、自力だけでも勝てるようになって、カード捌きもずいぶんと鮮やかになったものだ。トランプと一緒に生まれてきたようだと名乗ろうとも今や過言にはなるまい。
(それはないか)
世の中には本当にトランプと一緒に生まれてきたような、それこそまるで魔術師のようなそんな人間もいるのだろう。かつて亡くなったあの天才にしてもそうであったのかも知れない。
そうでなくとも器用な人間というのは、探してみる程にあるものだ。成歩堂と向かい合い、成歩堂より鮮やかにカードをきって見せた客もいた。もっとも彼も負け客となった。成歩堂龍一はあくまでも無敗のギャンブラーである。器用な人間。例えば成歩堂の目にも知れぬほどの手際で、イカサマをやってのけるような人間。そのような客があったならば、無敗の記録とて途切れてしまうかも解らない。
成歩堂はふとして考えた。
そして、首を振った。
(……まさか!)
イカサマはただ手先のみによって為すものではない。度胸と仮面、それらが揃って初めてステージの上へと持って行けるものだ。
『あの男』では、ギャンブラーには向くまい。
ディーラーにならば向いているのかもしれない。愛想の良き配り手。やや気は短く手も早いわけだが、客に親しみ、チップを得ていく姿が容易に想像できた。
今は、どこで、何をしているものか。
(…………)
成歩堂の指先は何とはなしに、再びカードへと伸びていた。
おろしたてのカード。背の色は青だ。外の世界を、人の指先を知ったばかりで、また互いに離され掻き混ぜられることに戸惑いがちでいる。
伸びる両手はそんな彼らを鮮やかにして送った。戻した。鍵盤とメロディを支配できぬその指はしかし、小さな地下室にてもう長く奏でている。『彼』にディーラーの可能性を見て、意外に向いているのかもしれないと笑う、成歩堂は今やかつてとは異なる道にあった。
ピアノを弾けないピアニスト。無敗のギャンブラー。どこかにおいて線路が変わったことには間違いない。
彼ならばそれは鮮やかにカードを混ぜるのであろう。
彼ならばあのふやけた笑顔で、女性客には特に甘くして接するに違いない。彼ならばそれを咎められても、何が間違いだという顔をして見せようものだ。
彼ならばひとつの道を歩くのを惜しむかのようにして、まるで道などと見えないかのようにして、きっと踊る。そして何かを巻き起こすのだ。風が通るたび触れる何かしらを揺らすのと同じ。
(……来てくれるなよ、ここには)
そうすれば何かが起こってしまうのだろう。だからして来りてはならない。
彼ならばギャンブラーには向かない。彼ならば、ディーラーには、向いているのかもしれない。
彼ならばピアノも弾けないのであろう。彼ならばしかし、やらせてみればやってしまうのかも知れない。
彼ならば気が変わってさえいなければ未だ絵でも描いているだろうか。
彼ならば、それが似合いだ。あのふやけた笑顔のままに絵筆を握っていればいい。考えてもみればディーラーというのは勝敗の場を支配するもので、そんな権限を彼に握らせてしまえば、どんなステージになろうか予測もつかない。
(だから、来てくれるなよ。ここには)
成歩堂の指先はカードをきった。ひたすらにきった。間延びしがちな真新しいシャッフルメロディは、しかし続く内にだんだんと軽やかな音色へ移り変わっていく。きっと多くの客たちの、そして成歩堂の指に慣れ、それらの札もやがては当然の様にしておさまる様に至ることだろう。
交換は一枚。二枚。三枚。
どうにでも、いくらでも、その並びかたを替えていく。
(……ショーダウン)
時刻もいよいよもう遅い。普段より幾らもゆっくりとしたシャッフルをついにとどめて、成歩堂は今度こそ、新品のカードを箱へ仕舞った。
幾度弾こうとも同じ顔をしたカードだ。しかしいずれそれらが指先に馴染む頃、離れがたく掻き混ぜられていた時期、例えばたった今などを思い起こすことができようか。
(思い出してはならない)
記憶というのは何かしらをもって連動する。
(思い出してはならない)
彼のこともまた、思い返してはならない。記憶というものは連動する。そして結局のところは記憶に過ぎない。
そこから何も生み出してはならない。生み出すことすら、ならない。
(器用な男だった)
ひどく不器用にも見られるのにそのくせ、気がつけば操ってみせた。
(ギャンブルには向かない男だった)
率直に過ぎる感情に溢れた男だった。
(ババ抜きですら、解り易かったよな)
この部屋にはきっとやって来るまい。
(ここは狭い)
それに薄暗く、どこか殺風景でもある。雪山の素朴な小屋でさえ万国旗を振り回して飾り立てたような男だ。
(だから、奴は)
彼ならば、どんな笑顔をしてカードを配るものだろう。
成歩堂は、思い出さなかった。
思い返してはならなかった。生み出してもならなかった。勝負のためのステージは懐かしむ場所でもなければ、おもい重ねるような場所でもない。
そしてゆっくりと忘れた。ゆっくりと掻き混ぜて、また忘れた。
新品のカードに染み付けてはならない。関わりのない記憶を、しみ込ませてはならない。
(ショーダウン、だ)
シャッフルを終えたカードは欠けることなく、箱の中へと眠りこんだ。
あとは成歩堂自身が眠りにつくのみだ。そのためにはピアノを弾けないギャンブラーの仕事を終えて、娘の待つ、もう付き合いも長くなる事務所にまでその足で戻らなくてはならないのだった。
決して悪いような気分ではなかった。
そのほかは既にして、そこにない。