もう、今日は泊まっていこう、だとかそういう段階でもなくなってきている。



 この事務所の内には日に日に、ほんの少しずつではあるものの、オレの持ち物が増えていく気がする。
 始まりはほんの洗面道具だとかそういう類のものだった。それだっていちいち持ち帰ったりとしてはいたわけだ。
 けれどもやがて面倒だからと、もうひと揃い用意したのを置きっぱなしにするようになったのがきっかけで、そこからヘアワックスにバスタオル、スリッパから文房具まで。ハンガーも食器も、気がつけばオレの分が揃っていた。
 それだから衣類を持ち込むようになって、たまたま安売りを買い込んだ食料なんかもこちらの冷蔵庫に仕舞うようになって、そして今に至る。

 もちろん、本来の住まいであるアパートの一室を解約などはしていない。
 オレの『住所』は今でもそこにある。定期的には必ず戻って掃除手入れも欠かしていないつもりだ。家賃だって滞らせてはいない。

 だがしかし近頃にはそれを、勿体ないんじゃないだろうか、だなんて思うようにもなってきてしまった。
 どうしてだろうか。
 どうしてだろうかってそりゃ、まるで物置みたいになってるからじゃないか。
 ただでさえ決してモノに溢れているわけでもないのに、生活に必要なもの、大体がこちらの事務所に揃っていたりする。歯ブラシやら何やらと部屋とでふたつ揃ってしまったものもある。
 確かにオレは勿体ないことをしているのかもしれない。

 けど、それでもやっぱり、あのアパートを捨ててしまうようなわけにはいかないのだ。なんだかんだでもあそこはオレにとっての『帰る』べき場所だから。
 ここ、事務所はあくまでも仕事場であって、彼ら親子の住まう場所なのだ。



 親子は主に夜の時刻の仕事をしている。だなんて言い方だと何やら危険な職業にでも就いているかのように聞こえてしまうのだが、正確に表現するなら、つまりは夕食時ということだ。
 成歩堂さんはピアノを置いている店へ。さすがに例の『ボルハチ』については辞めることになってしまったらしい。
 みぬきちゃんはもう長く『ビビルバー』のステージでショーをやっているんだそうだ。今や看板にも等しいというほどの人気マジシャンである、んだとか。バーとはいっても明るい雰囲気の店で、治安も良いところにあるのだと聞いた。
 まあ、それはそうだろう。でなければまず成歩堂さんが許すはずもない。なんだかんだで彼はみぬきちゃん父親なんだなあと、寝食をともにもしてみると、余計に感じさせられるのだった。

 そうしたわけで二人は遅くにまで仕事をするもので、その留守をオレが預かっている。
 たまに、まあ本当にたまに、なんだけれど誰かお客さんが来たときになんか、出ていって応対するわけだ。湯飲みの場所もカップの場所もお茶やらコーヒーの戸棚にしても、取りあえずは一通りを把握してしまった。
 芸能事務所の方への話であれば、ひとまず解ることには答えておいて、あとは相手方の連絡先を聞いておく。
 もしも弁護の依頼であれば、普通に話を進めていく。もちろんオレが弁護士として。

 そうするとつまり、オレのお客さんじゃない人の応対だってすることになるわけなんだけど、それは決してひどく大変なことでもなかった。単なる『応対役』にだったら、正直なところ、本当に依頼を受ける役よりかも慣れてるつもりだ。
 なぜかといえばオレは、あのまるで完璧な事務所の職員だったんだから。







 いつも通りの時刻に事務所を閉めた。
 別に例えば、時間よりも遅くに来た依頼人を弾き返すほどに忙しいというわけでもないのだが、一応のこと決まりは決まりだ。
 一通りの片付けを終わらせる。それから掃除だとか洗濯だとか、残った家事に手を付ける。なぜ『残った』作業になるのかというと、開業中の暇な時間にその大分を終わらせてしまうからだ。悲しいことに。
 それはともかく、ここはオレの務める事務所でもあるのだし、オレの洋服だとかも置いてあるから、まったく関わりのない行為ではないわけだ。ちなみにこれは『事務所』の内側のみの話で、さすがに別階の親子の私室なんかには手をつけない。

 もう必要のない電気は消して、その他の始末も終えてから、オレはまたいつもの様にしてクロゼット(あの、人体サイズの箱だ)を探った。
 着替えを済ます。だけ、ではない。
 クロゼット(箱だけど)にはオレのためのスーツが混ざっていて、オレのための私服も混ざっていて、それから、エプロンなんかが混ざっていたりする。いかにも布一枚って感じの安物だ。けど、使ってみると悪くはないのだった。
 これはオレの弁護士としての、この事務所における職員としての仕事の内には入らないのだが、最後に小さなキッチンを借りて夕食を作る。
 三人分、作る。
 成歩堂さんの分とみぬきちゃんの分と、それからオレの分。
 一度たまたま、そんな風にしたのを始めとして、それも日常のひとつに組み込まれていった。
 それから二人とも、仕事先での賄い料理を断るようになったみたいだ。そして仕事を切り上げてからすぐに帰って来るようになった。代わりにいろいろ、持って帰ってくるようなことはある。
 とにかく、二人はそうしてここへと戻ってくるのだ。そうであるからにはオレも裏切るわけにはいかない。ここで彼らの帰りを待っている。
 そうしたことがいつの間にやら、まるで慣習のようにもなっていた。

 決して多忙でもないはずの身分が退屈ばかりではない日常を送る。
 良し悪しはことにもよるのだろうが、ひとまずオレがそれにあって甘んじている、というか甘えているのは、もちろんそれを決して悪しくなどとは感じていないからだ。
 面倒だとか考えたことなら、決して無いわけでもない。けれども辛いものだと思わされたことは一度もなかった。
 それで喜んでもらえるのならば嬉しいに決まっている。
 それが、許される内には保ちたい日常、であるということなのかもしれない。




 ふいに扉を開く気配があった。
 事務所の鍵はいまのところ、合わせて四つ存在している。
 ひとつは引き出しの一番上に放り込まれている。次の二つはそれぞれが親子の持ち物となっていて、残りひとつはオレのサイフの中やらポケットの中やらを行き来している。

「王泥喜さーん!」
「ん、みぬきちゃ……あ、成歩堂さんも!お早いですね」
「ちょうど事務所の前で会ってね」
「それならよかった。もう夕ご飯できてますけど、すぐ食べますか? 二人とも」
「みぬきはすぐに食べまーす! 手、洗ってくるね?」
「じゃあ僕もそうしようかな」
「……あ」
「はい?」
「ん?」
「いや、その。おかえりなさい、って」
 言いそびれていた。
 ただ、そんなことを改まって口にするのも、どこかおかしいのかも知れないんだけど。でも、その一言にだってずいぶんと馴染んできたものだ。
 オレが二人の帰りを待つようになって、それから。

「ただいまー」
「ただいま」

 こうして自然に返してくれるものだから、まるでそれが最初から当たり前だったみたいに感じるようになるんだ。




 オレは笑って、二人へと片手を振った。
 彼らが手を洗うだのうがいだのとを済ませている内に、残りの配膳も終えてしまいたい。それからオレも流しの方で手を洗って、きっとその頃には食卓へついているだろう、彼らを待たせないようにしておこう。


 せっかく本当にちょうど良い時刻に、揃ってここへ帰ってきてくれたのだから。












おかえりなさい、を言うひとの話。

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