未だ中学校も卒業していない年齢のみぬきを、よくよく人のいない事務所へ帰らせていた。
とはいえ『ビビルバー』は安心のできる店である。
多少サイケな面はあるものの開かれたイメージがまず強く、客層もそれなりに幅広く、女性スタッフも少なくはない。
帰宅のついでにみぬきのことを送ってくれる店員もある。女子大生アルバイトの誰々さんにジュースを奢ってもらった、だとかそうした話を聞くと、それは有り難いねと返しながらも無性に安心することができた。ただ、そんなみぬきのことを僕が待っていてやれた機会は決して多くはなかった。なにせ例えば『ボルハチ』での客ときたらまったくなかなか帰してはくれない。
みぬきはそれを、嫌がることもなく、話せば大変だねと笑っていてくれる。
そうして何年もの時が過ぎてきた。
ともに暮らしはじめて七年が過ぎ、みぬきを無人の事務所へと帰すことが、今ではほとんど無くなった。
帰宅の挨拶を交わすことのできる相手というのが出来てみればやはり、何とはなしに嬉しそうにしている。
みぬきはバーの賄いを断るようになった。ついでに僕も、断ることにした。
どちらとも、たまに何かと土産を持たせてもらうことはあったが、仕事があがるとそのまますぐに店を出るようになった。僕としても『ボルハチ』から替わる職場に、閉店の遅くはない蕎麦屋を選んでみたりしたというのが、ひとまずは間違いのない事実である。
弁護士シゴトの立て込まない限りには、王泥喜君が留守番をして待っていてくれる。
彼にも元から借りている部屋があるのだという。しかし最近では数日に一度、掃除などをするため戻るばかりになっているようだ。事務所もどことなし、自然と片付くようになっていた。
王泥喜君に任せておくと解らなくはならない程度に整頓をしておいてくれる。今ではすっかり、事務所の間取りにも慣れてしまったようだ。割とそういうことに向いている質なのかもしれない。
もしくは彼のかつての師匠の性格が、彼自身の生真面目な性分に余計に妥協を許さなかったのだろうか。
それについて問いかけてみたことはなかった。
ともかく、夜。僕やみぬきが玄関を開けると、もう必要なだけの電気が点いている状態で、ただいまとでも言ってみれば彼がおかえりなさいと返してくる。
ごくシンプルな、本人曰く安物だというエプロンを着けているか、ちょうどそれを外そうとしているようなことが多かった。
「おみやげ、あるんだけど。コーヒーゼリー」
「だって、みぬきちゃん。好き?」
「はい!」
「三人分もらってきたから」
「あ。……じゃあ、ええと冷蔵庫に」
「入れてこようか」
「わー。ハンバーグですか?」
「ん、うん、今日のは上手く出来てるだろ」
「まえハデに失敗しちゃいましたもんねー、オドロキさん」
「まあ……あれ、それでも失敗は活かされるんだよ。だから今回は悪くないと思うよ、いびつだけど」
「かわいいですよ。ほらこれとか、うさぎさんに似てます」
「きれいにマルを作ったつもりだったんだけどね……」僕の背後にて二人、皿を見ながらにのんびりと語らい合っているようだ。
冷蔵庫の中身はちょっと見ない内に混雑している。店からの貰いもの、プラスチックのケースに入ったデザートを詰め込むスペースのために、バターの箱とジャムの瓶とを掻き分けた。「でもオドロキさんの確かな上達はみぬきが保証しますよ! ほら、カレーとかすごくおいしいし」
「カレー……じゃあ、明日はカレーにしてみようか」
「ほんと?」
「成歩堂さん、いいですか?」
急に話を振られたもので、首だけ浅くそちらへと向ける。
「いいよ。王泥喜君、カレーは得意みたいだね」
「いや昔はよく焦がしたりとかしてたんですけど。慣れですよね、慣れ」
「僕なら今でも失敗するかもね」
「また、そんな」
随分とくだけてくれるようになったものだと思う。
おかえりなさいという言葉ひとつにしても、今ではどこか馴染んで響いてくる。
始めの頃は何と言おうかよりもっと毛を逆立てるようにしていた。無理もないのかもしれないが、僕に対しては特に。
「あ、そうだ。オレ明後日から明々後日にはちょっと帰ろうかなーと……掃除しに」
「だって、みぬき」
「えー」
「そんな不満そうにしなくても。カレー、多めに作っておこうか」
「うん? そうだね、頼めるかな」
「解りました。じゃあ大きい方の鍋に……」
「オドロキさん」
「ん、なに。みぬきちゃん」「しあさってにはちゃんと、帰ってきてくださいね」
「え?」
「ちゃんと帰ってきて。ね」
「……うん」
冷蔵庫の扉をできる限り、音を起てないようにして閉める。
しゃがんだままの体勢は楽というわけでもないのだが、今はもう暫し立ち上がらないままでいようかと思った。
王泥喜君が今どんな表情をしているものか、ここからでは確認することができない。少しばかり残念だ。
「……あ、あの、成歩堂さんも! 冷めちゃう前にご飯にしませんか」
「ああ。ハンバーグだっけ?」
「はい! ええと形はちょっと悪いですけど、味は大丈夫……のはずですから」
「かわいいんじゃないか。これなんてキツネに似てる」
「……本当はきれいなマルを並べるつもりだったんですけど」やや狭いテーブルの上には三組の食器が並んでいた。王泥喜君のため、買い足されたものも含まれている。
そうして事務所には彼の持ち物が増えていく。
「いただきまーす!」
「待った、みぬきちゃん。まだソースかけてない」
「ソース?」
「作ってみたんだ。ほら、ちゃんと本見たから大丈夫だよ」
「へー。でもほんとだ、いいにおいです」
「みんな自分の好きなだけ使えた方がいいかなと思って。置いとくね」
「パパ、お先にどうぞー」
「ん」スープ皿にて代用したボウルを示され、僕は頷きながらに片手でそれを受け取った。
この、事務所、にももう長く世話になっている。
思い起こせば様変わりをしてきたものだ。ベテランの観葉植物であるチャーリーにも、現在やや狭苦しい思いをさせている。しかしながら今でもなお、実に日々、僕が迎え入れられる場所としてあり続けてくれているのだ。
「あ、おいしい!」
「ほんと? よかった」
さて君は例えば彼のところでは、一体どんな風に笑っていたんだろう。
こうして片付けだとか料理だとかだなんてしたりもしたのかな。
僕はやっぱり問いかけることなく、黙って、未だ湯気を忘れないでいるハンバーグを噛んだ。
程よく火を通し、温かな柔らかさをしている。