「知っていますか王泥喜くん。そのムカシ弁護士の立ち位置を、いじめられっ子の席と呼んだ裁判があったのですよ」
マゾヒストになれ、ということではないようだった。
あの人は、相変わらずにゆったりと整えて微笑みながら、オレのことを見ていた。
「それが決して冗談ばかりだとは言い切れないのです。どうしてだか解りますか」
「……??」
「王泥喜くん?」
「は、はいッ! 解り………………ません」
「そう、しょげるのは後にしなさい。いいですか」
「……はい、先生ッ」
「弁護士は裁かれたる被告人の代わりに、そこに立っているのです。裁かれる者の代役、だから『いじめられっこの席』」
「はい……」
「それが意味として通じるか否かではなく、要はそれほどのことであるというのを理解できるか否か、です。弁護の席では決して泣き言を零してはならない。必要でないものをそぎ落として辿り着く、その先のためのほかに、意味のない『どうして』だなどと言ってはいけない」
「ええと、諦めてはいけない、んですね!」
「被告人の味方となり得るのは法であり、そこへ並ぶべきであるのが我々です。殊にもっとも重要な序審にあたっては尚のことそうであると言えるでしょう。序審は何を導きますか」
「え、ええと。有罪か……無罪かを」
「そうです」「君も近々、その席に座ることになる」
「その時には胸を張って笑いなさい。笑っていなさい。君の正義を確信し、そして誇り高くありなさい」
「私の教えようとしていることが解りますね。王泥喜君」
「……え、ええ牙琉先生、オレ大丈夫です!」
「慌てないで。しっかりと噛み砕いておくように」
「はい!」
みんな、あなたが教えてくれたことでした。
それなのにオレ、笑っていられませんでした。
驚くべきことが多すぎて、大きすぎました。確信ですら追いつかないぐらいでした。
「……ただいま」
本当は何時でもただいま帰りました、とまで言い切ることになっていたのだが、今にはそのようなことを気にかけなくとも問題はない。
つぶやき声を溶かすかのように差し込む夕暮れの紅。
返すものは何ひとつない。
誰ひとり、いない。
(それでも、そこにあったそれが真実だったんでしょう。オレはそれを理解しました。理解していたつもりです。そう、せずにはいられませんでした)
やがては本当にいなくなるのだろう。『ここ』にまで『帰って』くる影が。
(一方であなたは笑っていた。確かに笑って、いました。そしてオレは)
王泥喜の影ひとつが空虚にして伸びていき、沈むべく光の中を薄暗く彩っている。
(オレはこれから本当に、信じるべく何かへ、なり得るんでしょうか?)
答えを返す声などはやはり、ひとつとて無い。
「ただいま」
思い返した言いつけに習って無理矢理にでも微笑んでみせようとした。しかし、叶わなかった。
ならば作り物でどうにかしようということを考えても、きっともう暫くかかるのだろう。それでも、考えることを遮るかのようにして王泥喜はその口元を動かす。
「ただいま……」
返してくれるべきひとは、そこにいないのだけれど。
「……おはよう?」
「?」
「お目覚めかな」
「……寝て、ましたか。オレ」
「ああ。それは気持ち良さそうに」
「起こしてくれてよかったのに」
「そういう野暮なこと、許せない質なんだよね」
「…………」
「よく言うよ……って言いたそうな顔してる」
「そこまでは考えてませんよ!」
「夢を見てたんじゃないか」
「そんな……気もします。って、もしかしてオレ、うなされてたりとか?」
「どこかへ帰る夢だったのかな」
「帰る、夢? ですか……でも、なんだってそんな」
「ただいまって言ってた」
「『ただいま』……」「どこへだろう?」
「……どこにでしょう」
「妬けるね」
「どうして、何に」
「僕には言ってくれないのかな。それ」
「オレが検事に『ただいま』って、どんなですか」
「『僕のところ』に帰るんでいいんじゃないかな」
「……なんの話なんだ。もう」
未だ幾らかの眠気を振り払いきれずにいる、椅子へ身を任せたままの王泥喜の背に、ゆっくりとかかる体重がある。
それは緩やかに腕を回し、首を肩で包み込むような体勢によって肌と肌とを接触させた。
「……おかえり」
結われた髪の毛がさらりと降りて、その柔らかな感覚は頬をも撫でた。
前の方にてしっかりと組まれた腕は強くに締め付けてくるわけではない。ただまるで甘えるかのようにもして、開放を行う気配のないまま、座る王泥喜の身体を抱いている。
「……………………」
そして、そこにぽつりと返される言葉があった。