夕刻の街にて、二人はたまたま顔を合わせた。
和やかに挨拶を交わしておかしいような仲ではない。歳の決して遠くもない二人は言わばご近所さん同士という間柄であるわけだし、また、それ以上の思い出を互いに共有してもいる。
とはいえそうそう甘ったるい記憶でもなかった。そのとき彼らは追い詰められて、二人して崖の途切れる間際に立っているようなものであったので。
「……もしかしてケガでもしてる?」
「へ?」
不意にそれを感じて、王泥喜は問いかけた。口の中身を気怠くするようなつんとした匂いがあった。
料理で包丁を使う際に誤って小さな切り傷をつくってしまった時のような、そうした感覚も思い起こされる。
「え。……や、してねぇけど?」
しかし返答とともに、思わず振ってみせたのであろう彼の右手甲には、なんと本当に細くも紅く滴る筋が見られた。
「いや、なんか血みたいな……て、あ、出てるじゃないか! ほら!」
「あ、あ、ああこれ……これはいや、あれ? あー、気付かなかったぜ!」
王泥喜の叫びに向かいの少年、滝太は慌てて右腕を後ろに回し、そこへ左手も被せて隠してしまう。
「さっき転んでそのォ……どっか、カドでやっちまったかな。恥ずかしいから黙っててくれなっ」
「黙ってるって。誰に」
「親父とかあとホラ、センセんとこの人達とかさ。みんなオレのこと知ってんだから」
「……いいけど、気を付けないとダメだよ。病み上がりじゃないか」
「なんだぁセンセ、親父みたいなこと言ってくれるぜ」
「そりゃ、君よか歳上なんだからな」
「ほんのちょっとしか違わねぇじゃん」
滝太のそうした主張の通り、ふたりはそうそう遠いような歳頃同士でもない。
それでもセンセイというどこか畏まった呼び方が用いられるというのには、互いのそもそもの間柄にあたり、その意味が含まれている。滝太という少年の性分を思わせるものでもあった。
まず、根からしてひどく真っ直ぐであるのだ。そしてどこか情熱的でもある。そういった点において彼と王泥喜とはなかなか似通っているのだが、王泥喜の方ではそのようにして考えようというよりか、彼のことをまるで弟か何かのようにも感じ取っていた。
どうにも、危なっかしいことをしないでくれ、という様な思いが態度に出てきてしまう。
(みぬきちゃんのおかげ、かな)
王泥喜にとっては今、まるで妹のような立場にもある少女。例えるならばその影響は深いのかも知れない。もっとも彼女は王泥喜のことを、大きな弟のようだと表現してくれるのだが。
「な、それはともかくセンセーさ。今度うち遊びに来てくれよー」
「ええ……あ、あのお屋敷?」
「前オレそっち遊びに行ったしさ、そればっかじゃビョードーじゃないじゃんかよ。なっ」
「いや、まあ、それは嬉しいんだけど……」
なにせいわゆる極道のお屋敷である。筋の通った良い連中であることは重ねて解っているのだが、かつて門前に立っただけでも固まらずにはいられなかった事実の方が記憶に新しい。
地域密着型とは名乗れど、小刀捨てて商売をするのだとは言っても、例えば滝太の母親にあたる奥方の持つような、鋭い気配というものはなかなかにして離れえぬものであろう。
滝太がそうそう恐ろしくに感じられてこないのは彼の性格のためであるし、またそれこそ正直なところには、歳の近いからというためでもあった。
「そんじゃなーセンセー」
「擦り傷かな、とにかく家に帰ったらちゃんと手当するんだよ!」
「こんくらい一晩寝たら消えちまうって。センセーこそ気を付けて帰らなきゃ、ほらもー暗くなってきたぜ」
「…………オレより若い子に言われるセリフかなぁそれ」
やや幾らか落ち込んでみながらも、にこにこと手を振る滝太に向け、王泥喜も右手を挙げる。
そうして手を振りながらまた、気付いてしまった。
左手首が微かに締め付けられる。それは知り得ぬ感覚、ではない。
(……『ウソ』?)
背中になってしまった滝太の姿を改めて見詰め、小さく眉をひそめた。
左手首のその締め付けは一種の『証』にあたる。
しかしいったい何事かを見抜こうにも、呼び止めるにはもう離れ過ぎてしまっていた。彼が果たしてどのような嘘を吐こうというのだ。想像するに嫌な予感はしてきたが、彼自身におかしな様子があったというわけでもない。
するとどうしても結論へは至れそうになかった。
(……あっぶね)
切れてなどいない腕から血の筋を拭って、滝太は息を吐いた。(ありゃなんせ、ベンゴシのセンセーだもんなあ。生真面目な性分みたいだしよ)
滝太も真っ直ぐにはいようしている性分であるし、また、正直なところ少しばかりは気の小さいという自覚もある。
しかし極道の息子であった。現在ではもう一家揃って足を洗おうというところへ来てしまったが、間違いはなくその立場にあった。
(家に呼ぶにも気まずくなっちまう、ってさ……)
相も変わらず真っ直ぐな瞳と、袖をまくり上げた白いシャツ。燃えたるようにも爽やかでもあり、更にはどこか不思議な印象のあるブレスレットまでがいっそ愛しかった。
(集めてンのかな? ああいうの)
同じ風をしたアクセサリーでも探して、揃いにしてみたと笑ってしまうのも良かろうか。
アイテムというのは何かしらの取っ掛かりになり得るらしい。選択を間違わなければ確かな成功への近道なのだから、相手のそれをさりげなく、よく見てみることだ。
雑誌に書かれていた知識である。実際に試してみたこともあるし、『彼女』はそれを身に付けていてくれたので、失敗をしたわけではなかったのだろうと考えられる。
しかしながらそれが、その事実こそが彼女の首を締める結果となり、そして滝太を救う切っ掛けともなった。
あれ以来、何を問うことの出来た機会もない。一家からの目など振り切る思いで面会へ挑もうにも、調べてみればどうやら、受刑者側の意思のないことには許されない仕組みになっているようだ。
納得できる理屈ではあった。それもそうだと考えて、そしてそれ以来には踏み切れていない。
そういった考えを彼には、彼にだけ、零してしまったことがある。
黙って頷き続けていてくれた。このまま縁が切れてしまえばいい、などとは思い切ることのできない滝太を、笑うこともなければ馬鹿にすることもなかった。事情を知ってそれでいて、くだらないと拒絶することもなかった。
もしかすれば彼もまた、どこかで同じような感情を抱いたことがあったのかもしれない。
ふとそう考えるに至ったのが始まりである。
ただ結果としての恩人であり、また人の好い男であるとも考えていた。そんな彼のことを、より多角的に見ていたいと感じるようになったのだ。
腕に残ってしまっていた『血痕』がすべてしっかりと拭われたことを確かめる。ひとまず、気に入りのジャケットに染みをつけてしまった様子はない。
(あ、でも帰ったら親父にはバレちまうかなァ……いまほんと暴れんなってうるさいしよ)
それでも父は、彼、と比べてみれば滝太の行動心理を理解してくれる方であろう。
売られたものは買わねばならない。借りてしまわくば返さねばならない。
(だから、ありゃオレが悪いんじゃねぇぞ)
相手は覚えている限りに五人ほど、体つきこそ良かったものの学生服であった。
すれ違いざまに肩が触れあたり、揉めごとに至った。滝太の方からは名も知らぬ、恐らくは堅気の子供であろう。だからこそ途中で駆けて逃げ出して行ってしまった二人ほどのことは見逃してやったのだ。
そのぐらいであるからとでも言い訳してみれば、真面目な『センセイ」も許してはくれなかろうか。
(あー、くそ。これじゃいつか親父みたいになっちまうぜ)
近くも遠くに愛しいものを作るというのは、まったくひどく容易くはないことだ。
おちおち喧騒沙汰のひとつも起こせやしない。
何はともあれ、明日にでもまた街を歩いてみようと思う。
まさか決して自らどこかへ喧嘩を売りに行こうというわけでもない。彼と揃いになるような腕輪でも探して、それから、彼を持て成すために良さそうな茶菓子についてでも考えておいてみようかと思う。
今度こそ邪魔など入れてやるものか。
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