暫くはもう顔を合わせる機会を保てないだろう、という状態に至ってしまう前に、ぎりぎりのところで面会を許されることができた。
仕切りによって隔てられこそはするものの、実にすぐ傍にあって会話を行うことができる。そして今では更に異なる意味にもおいて、互いを隔てるものなどは無いように思えた。
あるとするならばそれこそ、母語の異なりぐらいのものだ。
「あの、ありがと……ありがとう、です」
「いや。ええと、ほら、あれですよね」
そして王泥喜はひどく言葉選びに迷っていた。限られた時間の内にきちんと伝わるようにして話をしなければならない。そうそうあるような経験でもなかった。
(かといってオレにボルジニア語は、なぁ……自慢じゃないけど英語だって怪しいのに)
「ホスーケ……?」
「あ、ああそうだ! マキさん、改めてボルジニア語も喋れる弁護士さんが付いてくれるんだって」
「……はい」
彼、マキはこれから、日本の法において裁かれる。
それは決してただ悪きような進路ではなかった。裁判の場所が『あちら』になってしまえば彼はその時点で、最も深い刑罰によって裁かれることになる。選択肢は無い。
だからして、彼の為した罪を扱う法律がこの国のものに定まったのだということは、決して最悪の事態ではなかった。
本題がレタス氏の件からマユ密輸の件へと移っていくにあたって、紆余曲折あったが、殺害事件の方の後始末をしながらに王泥喜はひとまずお役御免ということになった。マキには改めて弁護士が付く。今度はボルジニア語にも堪能な、ベテランの日本人である。「……そりゃな。オレなんかよりもそういう人の方がいいよなぁ」
「ホスーケ?」
「あ。うん、なんでしょう」
「ホスーケ」
「は……はい」
「あ……」
マキは王泥喜を見ながらに、どこか困った風な様子で首を傾げてみせた。王泥喜も内心に慌てた。どうやら言葉の選び方について戸惑っていたのは、王泥喜ひとりではなかったらしい。
「あ、あの、ええと。マキさん?」
「ホスーケ……」
ぽつりと呟いてから、王泥喜の方へと視線を合わせてくる。
「さよなら、ですか」
「え……いや、違う! じゃなくて、そうじゃないんですけど、オレはこの通り日本語だけしか喋れませんから。だからきちんとボルジニアの言葉も喋れる人を……」王泥喜の慌てぶりが思わずに膨れてしまったのにも、無理はない。
表情というものは時に言葉にも増して語りうる。マキの仕草はどこか、弱々しくあるように染まっていた。
「ホスーケ、いい人。日本語、もっと話せるようになります。だからさよなら、いや」
「そ、そりゃ……もちろんオレだって」
マキのことがどのようになっていこうかは気にかかるし、出来る限りに最後まで追いかけていくつもりでいる。彼の新しい弁護士へも既に、尋ねて連絡先の交換までを済ませておいた。
よろしくお願いします、と繰り返した言葉に熱を込め過ぎてしまったものだろうか、もう経験も深いのだというその弁護士が、可笑しそうにしながらもしっかりと頷いてくれたのは記憶に新しい。
「ホスーケと一緒ではだめかと思った。だめなのですか」
「いいえ! あの……オレはマキさんのこと、ぜったい忘れたりなんかしませんし、きっときちんと見ています。でも、確かにしばらくは会えなくなるかも……しれないです。けど、また会えるのを待ってます! ……マキさんのためには、オレでは不充分なんです。だから、他の……」
できるものならば、これからも彼について行きたいところだ。しかしボルジニアの言語を解さない王泥喜にとって、これからの彼の弁護というのは決して向いたような選択ではない。
励ますためのたった一言ですら、ろくに送って渡せないというのに。
しかし王泥喜がマキの方を確かめると、彼はまるで花を開かせたかのように微笑んでいる。
「マ、マキさ、ん?」
「では、さよならではない? またホスーケとお話できますか?」
「も……もちろん! 機会さえ作れたら、すぐにだって!」
「よかった!」
歳相応の声をあげ、マキはガラスの向こう側から、王泥喜の方へと身を乗り出した。
「また会いたい。会えるよう、待ちます。ホスーケがよかったら、また会えますように」
「マキさん」
「今日でおしまいかと思った。いやでした。でも、またいつか会えますか」
「……ええ! 絶対にまたお話しましょう、マキさん」
王泥喜も思わずしっかりと目線を合わせてから返す。
何らかによって彼の頼りになり得るのだという、その事実が純粋に喜ばしかった。
にこにこと笑いながらも席へと座り直す、マキは裁かれるべく年齢でこそあるが、それども未だ子供として呼べよう歳頃である。家族の様な間柄であったというラミロアとも、再会を許されるのは相当に先のことになるのだろう。
それを思うほど王泥喜は、ただ、この面会室から離れがたいように感じた。
「ホスーケ、…………みたい」
「え? あ、すみませんマキさん……オレ、ボルジニア語は」
「まって、ええと。オ……ニイ?」
「オ、ニイ? おにい、さん?」
「そう、それです。おにいさん」
「そう、ですか? オレが? ……あ、はは……なんか照れるな」
そういえばみぬきとも同じほどの歳頃である、彼から見れば確かに、ちょうどそのぐらいの感覚があるのかも知れない。決してそうも頼りがいのあるようなことなどは出来ていないのだというのに。
「ホスーケ、おにいさ」
ふと、マキが声をあげた。どこか改まった様子でいる。向かいともに合わせるようにして、王泥喜は姿勢を正した。
「あ、はいッ。どうぞ!」
「いっぱい……」
「?」
「うそ、ついていたこと。ごめんなさい」
「……マキさん」
「言いたかった。やっと言えました。また会いたいから、言いたかった」
「マキさん、オレ……」
「ごめんなさい」
「オレ、怒ってはない、です。マキさん」
ゆっくりと俯いてしまったマキを目前に、息を飲む。
言葉にこそしようとも、どれほど伝わろうかは解らない。しかし黙しているままでは済まないのだ、ということが、返答を為す王泥喜にとってもまた同様にある。
それも、今。彼と向き合うことを確かに許された、そしてもっとも時の早き、今に。
「あの法廷で、最後にはきちんと本当のことを話してくれました。それは本当によかった、だから、できればどうか次の弁護士さんにも隠しごとをしないでください」
「はい……」
「オレは、オレ達はあなたの味方です。だからあなたを助けるために必要なこと、全部知りたいんです。もちろんそれはマキさんの自由でもあります。きっと事情だってあるだろうと思います。……でも、もしも信じてくれるのなら本当のことを話してほしい」
「話します。もう、うそは言わない」
「うん。うそは言わない」
声によって繰り返しながら、微笑み頷いてみせる。
するとマキは緩やかに顔を挙げた。それからまた、にっこりと笑って王泥喜へと返してくれた。
別れを惜しむ思いの消えぬうち、係官の視線が控えめながらにも時間の経過を知らせてきたのであるが、その表情はどうしてだろうか笑っているかの様に感じられる。
新たにマキのことを担当する弁護士が、王泥喜の様子を見て、どこか可笑しそうにしていた際の微笑みにも似ているような気がした。悪意の込められたようなものではない。
何はともあれ、互いに惜しんで手を振り合い、すればあっさりと面会の時間は仕舞ってしまった。こうしたケースでなくとも元より厳格な限りの定められたものである。
そんな中、こうして機会を許されたことは実に幸いであったのだ。しかしながらとにかく急なことで、みぬきを連れてくることも叶わなかった。次ともなればいつになろうか解らない。
けれども双方にまた出会うための心の準備ができている以上には、それを許さぬもののあるようなことでもない限り、いつか必ず顔を合わせられる日も来ることだろう。
(……そのときはみぬきちゃんにも声をかけよう。早めに)
王泥喜がおにいさん、だというのならばならば彼女はおねえさん、ということにでもなるのだろうか。とはいえ、歳の方では彼女とならばそうそう離れていないはずだった。
(むしろ、マキさんって大人びてるしなぁ)
みぬきも根からしっかりとしたところのある少女であるが、マキの方もより幾らかに落ちついた風のある少年である。
(って、それじゃまるでオレが一番おとなげ無いみたいじゃないか)
ふとそんなところにまで思い当たってしまったので王泥喜はもう、思考を振り払うことにした。
それに寂しいものだと考え続けているよりは、ただその幸福ばかりを願い続けていた方が、こういった際には良いようにも思う。まず、何よりも彼のために。
もう『嘘』としては決して吐かぬつもりでいる。出来るかぎりに隠しごともしないでいようと思う。
しかし結局、話さずにいたことはあった。
ひとつだけ。
(『ホスーケ』)
ガラス越し、触れ合うことこそ叶わなかった。それでも記憶に焼き付けた彼の笑顔を蘇らせながら、マキは考える。そのことをもう、それなりに長い間、考えてきていた。
(やっぱり、なんだか似てる。ラミロア……?)考えごとは、これもでき得る限り、日本語によっても行うことにしてみようかと思う。
もっと自由に扱えるようになりたい。王泥喜との間に思うまま、言葉を交わしてみたかった。
先に不安は幾らでも尽きないで有ったが、再び出会うための約束を思い起こせば、マキの心の内は度々にもして晴れる。
(よかった。……あなたで、本当に)
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