そのときおれの頬を伝っていったものは、通りすがりの雨でなければ額へにじむ汗でもなかった。
 決して、こらえるような痛みのあったわけでなく。
 すぐ目の前に悲劇のあったわけでなく。
 それなのに。






 四散した破片を組み上げて理解へと至るのが、いっそのこと遅すぎたほどだ。
 在るべきものは在るべき場所へ。それでこその成就。
 そうでないままに留まってしまった時間など、いつしか必ず打ち止めて終わなければならない。
 思うまでもあるまい。解っている。
 解りきっている。
 在るべきものは在るべき場所へ。
 還すべきものは、還したる道へ。
 はじまりにまで遡り、散らかした玩具を箱へと詰める。
 悩ましくはない。恨めしくもない。帰結への手順は俺の中を円滑にして流れていく。
 ただ、いまここにすべてを還せば、俺はその先の何をも知らずにいくことになる。
 俺を還す。俺が還る。そうして俺は溶け失せる。
 その先を確かめ、呑み込み、感じ受ける権利を持ちうる者はそもそも俺ではない。
 俺には決して、そのさまを見ることなどできない。
 できないのだろう。
 成就すべき帰結のその先に、どうしようともふたつの影が並ぶことはない。
 解りきっている。

 こうしてそのための時間は終った。終うべくして終った。
 きっと何もかも残らないのであろうと思っていた。
 在るべきものを在るべき場所へ。身体は決して、『残す』ことなどするまいと。
 それなのに。

 
 
 







 それなのに、そのときおれの頬を伝っていったものは、天のわたす雨なんかじゃなかった。
 熱をにがすための汗なんかでもなかった。
 痛みだとか、悲しみだとか、そんな風に形のあるものでもなかったのだ。
 ただ、胸のうち、やわらかなところをたった一本の指先でもって押さえつけられるかのような。
 不確かな揺らめきだった。いつまで待ち続けてみようが、何ものとも繋がることはなかった。


 間違いなくここに在るのだというのに、おれが知っているかたち、ではない。
 いや、それでも知っているからこそここに在るはずである、そのせつなさは応えを返さない。
 散り消えてしまうようなこともなかった。

 そのかわりにゆっくり、筋をつくった涙が乾いていくのと一緒になって、溶けていく。
 きっと、おれの中身であるままに。


 なんだろう。これは。











 それから随分と経って、ようやく繋ぎとめることができた。
 




 ここに在るのは俺だ。


 『覇王』が、おれの中に、いるんだ。
















 病院の個室というものはひたすらに清潔で、どこまでもひどく静かだ。
 ベッドの寝心地は悪いものではなかった。強いていうなれば、カレンのことを連れ込んでやれなかったことが心残りである。
 眼ひとつのためともいって、ずいぶんと大掛かりな検査をするものだと思う。
 できることならば早々に退院してしまいたい。それがもう暫くは叶わないらしい。決して医者が憎いだなどと言っているわけではなく、単純に窮屈であるためだ。
 なにせこのひたすらに清潔で、どこまでもひどく静かな白い空間は、愛しい家族の入室すらをも許してくれないのだから。


 解っているさ。仕方がない。
 厚く巻かれた包帯が、俺の眠りを妨げるような真似はない。数刻ほど前に替えたばかりだ。ぼんやりとしていて、思わず日本語でもって返事をしてしまった俺のことを看護士は笑った。
 笑って問いかけてきた。留学をしていたんだってね、と。
 そうですとも! 日本語だけ取ってみれば、四人の留学生の中では俺こそが一番へたくそだったかもしれないけれどね。
 
 とにもかくにもそうして俺は、やがてゆっくりと沈んでいった。消灯の時刻を過ぎ、ほぼすぐさまのことである。










 夢の中にひとりの男が出てきた。
 褐色の腕はかたく鍛え上げられていて、軍人かなにかを思わせる。髪の毛は黒。髪飾りも含めて、邪魔にはならないような程度に装飾を身に付けていた。
 暗闇のうち、どこであろうか壁に寄りかかるようにして、こちらの方を見ている。
 すっかりと沈んだ瞳の色。よく解らなかった。





「羨ましかった」

 男はぼんやりと、そんな風にして呟いてきた。

「お前のことを羨んだ。心を強くもち、他人を信頼し、つとめて励ました。折れることよりも柔軟であった」

 どうして。改めたかのように、そういった物言いをするのだろうか。

「お前は明るく、ただ無愛想なおれのことすらも信頼してみせた。おれもまたお前のことを信頼した。その背を護ってやるつもりでいた。できなかった。おれが導くべきであるはずなのだと前に立ったとき。本当はお前こそが導いていてくれたのだとそう思わなかったか」

 どうして。

「おれのことを憎たらしく思うだろう。偉そうにしておいて、お前から託されたすべてを捨てられないまま逃げ出そうとしたおれが。断ち切ることもなく無様に彷徨い、勇ましかったお前の誇りになおも縋りついていたおれのことが、きっと憎いだろう」

 なにを言っているんだ。

「そのうえ、おれときたら自分の家族のことすらもろくに護りきれなかった男だ。おれは母親を見捨てたのだ。父親の手を取ることで、母親の手を放したのだ。結果的に失われたものはなかったが、おれの罪もまた失われることはない。永遠に続いていくんだろうな。おれはこの手によって母親を見捨てた」

 おまえ。

「その点、お前はどうか。おれはまだ、かろうじてあの時のことを憶えている。今にも消え去るところであったお前は、お前のことを庇おうとしたお前の家族をそっと後ろにやって見せたな。そしておれに、よもやずっと安全なところで震えているおれに恐怖から縋るようなこともしなかった」

 おまえは。

「おれはお前の半分ほど、いや、かけらほどにも美しいものではない。悪事のとげを埋め込んでしまって隠蔽したような男だ。こんなけがらわしい罪人に」

 待てよ。

「まさかお前の相棒を名乗り、友であろうという資格など。あるはずがなかった」


 待てって言ってるんだ。





「 『さようなら』 」





 どうして。






 褐色の男がかかげている、おそらくは金属の首飾り。
 ひるがえってひとつ、音を起ててくる。
 そうしてすべては真っ暗になった。







 ああ。

 最後にかわした言葉とは、いったいなにものであっただろうか。

 その男は俺とほぼ同様の条件下にあるはずだというのに、そのくせ、とても流暢な日本語を話した。
 英語の方では些か、ところどころぐちゃぐちゃの訛り方をしている。いろいろなところを渡り歩いてきた結果なのだと、そんな風に言っていた。それから、お前こそオージー訛りがひどいだとか言われたっけな。
 素が出るとよくそちらの方で話した。俺たちは互いの母語を、それこそとてもよく知っていた。


 そうとも。
 その男は。





 誰だったろう。











 病院の個室というものはひたすらに清潔で、どこまでもひどく静かだ。
 ゆっくりと朝の支度を進めていく。検査のためというわけで入院生活を送っている、俺の身体の方は実に正常に動いてくれている。今日とてやけに早い時刻、押し出されるかのようにして目覚めたものだ。
 ただし眠り直すことはできなかった。そのせいだろうか、すこしばかり頭が痛むような気もする。

「ハイ、ジム。良い朝ね」
「ハイ。調子が良すぎるぐらいだ」

 あれ、英語。いや、ちがう。
 そうだな。当然のことじゃないか。ここはもうアカデミアの、本校じゃあない。
 彼女はこの病院に所属する看護士だ。穏やかな笑顔が得意で、こんな風に親しげに話しかけてきてくれる。


「カレンに会いたいな」
「んん、ご家族のミス・カレンね」
「だめ?」
「我慢をしている男のひとって素敵よ」
「やっぱりだめか」
「我慢しすぎるのも、よくないだろうけどね。誰にだってどうしたって限界があるもの……押し込みすぎたら、溢れてはじけ飛んでしまうわ」
「……ああ。まったくだ」
「そうね、そういえば、ワニって日本語でなんていうのかしら。知っている?」
「知ってるさ、アカデミア本校じゃあ散々に言われたもんだ。いいかい、南から来た留学生はいつだって『わに』を背負っている!」
「へえ、なかなかはっきりした言葉じゃない。ふうん、わ、に…………それにしても、さすがだわ。ちゃんと勉強してるのね」
「もちろん」


 そうですとも!
 まあ、日本語だけ取ってみれば、三人の留学生の中では俺こそが一番へたくそだったかもしれ、な。





「…………!」



「ジム?」
「……! ちがう」
「どうしたの、ジム」
「待ってくれ。ちがう」
「ジェームス。しっかりして」
「ちがうんだ。三人じゃない、ちがう、三人じゃな……」


 俺たちはいったい、何人であの船に乗ったのだ。


「先生を呼びましょう。気を確かに、ジェームス」
「ちがうんだ、ちが……」
「大丈夫よ。ゆっくり息をして」
「No, ……ちがう、ちがう」
「右目が痛いのね? 押さえてはだめよ」




 何人であの船に乗って、帰ってきたのだ。
 








 それから、ちょっとした騒ぎになったのだと、そう聞いている。
 俺の状態は、態度としては落ち着いていたものの正に茫然自失にも近しかった。包帯に覆われる右目のところへ手をやってはちがう、ちがうと繰り返しながら、息を詰まらせていた。らしい。
 駆けつけてきた医師は、青ざめていく俺のことを重く見て鎮静剤を投与した。
 そうして俺はこの白い個室の中でもう一度、深い眠りへと沈んでいったのである。


 その先の夢、の中は。なにもない暗闇であった。
 そこには俺だけがいて、俺だけがあって、喉をしぼりながら何かを叫んでいた。



 
 おぼえていない。








 どうして嘆く。
 おれなどは本当のところとうに死んでしまっていたのだ。
 なぜならば、実際にそうあるべきだったのだから。
 選ばなければよかった。いや、選んでおけばよかった。
 こうすればよかったんだ。
 生きてお前の隣など眩しく思わずに、あのとき絶望の底へと沈んでおくのが正しかった。

 忘れてしまえ。






 なにを。
 なにを言うんだ。ばかなことを。
 おまえと俺はふたりで、彼を。彼のことを救うがための、あの、最後の一枚を。

 おまえこそ、おまえこそどうして泣いているんだ。
 そんな風に。
 どうして泣かなかったんだ。
 泣いてくれなかったんだ。
 どうして。











 
 どこまでも続いて広がる暗闇のなか、まるでもがくかのようにして、誰かのことを捜し続けた。
 それなのに。

 その夢の中には、ついに誰ひとりも出てきはしなかったのだ。

















 top