負うことの苦しみについては悲鳴ですらも堪えなければならないのだが、過ぎた後にまで痛みのそのものを憶えておくことは、決してためにならぬような心がけでもない。
 どんなにか鍛え上げたつもりでいようとも身体とは、ひどく容易くに傷をこしらえる。それによって何ごとが引き起こされうるのか、何ものを失いうるのか、憶えておくというのはつまり学んでいくということだ。
 やがてはその、抱かれる苦痛が塞がれて去りいこうとも、刻み込まれた感覚をしかし忘れないでおく。
 そうしていずれ身体は傷より逃れる道行きを知り、あるいはせめてもささやかな結果として受け止めるやり方、立ち直るための術というものを解して、失われることからも遠ざかっていけるのだろう。
 だから、憶えておかなければならない。
 殊に。あともうひとつでも間違っていたならば、この身ごとでも抉り取っていたであろう様な痕のことなどは。



「傷が」
 その声は近しく、そしてごく小さなものとして聴覚の内へと入って来た。
「……傷痕があるな。ここ」
「どれのことだ」
「背中の、左下の方」
 思い起こせば、その『ひとつ』とは。
 恐らくいつだか鉛弾ひとつ、かすめたときのものであろうか。
 腹底にまで呑み込んでしまうような事態こそ避けられはしたものの、塞がるまでに随分とかかっている。加えてどうやら未だにも、消え去りはしないままであるらしい。
「消えないのか。これ」
「時間が経っていないからな」

 然して特別な思い出でもなかった。
 そういえば脇腹のあたりにもかつて、概ね同じような痕が有ったものではなかろうか。そちらの方については、自らによって目視することのできる部位にあったがため、消えてなくなってしまうまでの経過を理解することも可能であったのだ。
 いずれにしても。
 何にしてもその瞬間より数えて、塞がるところまでの感覚を言うなれば、憶えている。
 その先のことは決して確実ではない。刻まれたままにして今でも残っているものか、あるいはとうに失せて見えなくなっているものか、どちらにしても確かめられなければどうしようもなかった。
 どれだけ強烈なる記憶として、その苦痛についてを『学んで』こようとも、繰り返すまいとして誓ってこようとも。我が視界の内にまで入ってきてくれない傷口は事実上、つまり自らでの支配から逃れていってしまうわけだ。
 他ならぬ、この身のことであるのだというのに。

「じゃあ、いつかは消えるんだな」
「さあな……消えるだろうとしても、どうせ俺には解らない」
「なんで?」
「見えないからだ」

 それでも。
 それでも、憶えておかなければならなかった。
 ためにもならぬような事柄ではない、そうした様々についてを、学んでおかなければいけない。よく知っておくべきだ。
 そうすることによって或いは、後に自らを救うことにもなり得るためである。
 いま、選択の果てにここへ在ってその上、こうして『彼』に我が背を向けさらしているような『この身』。



「そうか。そうだな」
 その声は近しく、傍らより真っ直ぐに響いて通る。
「なら、見ておいてやるよ」

 憶えてはいるのだというのに、この手を離れていってしまった薄くもひとつの傷痕へ。
 他者によって抱かれる熱がはしった。


「……十代」
「いつか消えちまってたら、教えてやるから」
「憶えているんだ。俺は」
「ああ」

 いつの日かとうに乾いていたそこから、やがてはその、彼の指先も離れていく。
 次いでゆっくりと柔らかな潤いに、触れた。

「けど、今は俺のほうが、よく…………」

 口づけはやさしく痕へとかさね、くすぐって降りる。



「知ってる」







 たったいま誰よりかそのことを、知っている、彼が。そこにおいて伴われた苦痛を『憶える』ような機会は、この先にも二度と訪れぬままで構うまい。
 その色をもはや知らないでいる自分が、しかし間違いなく、憶えておくから。
 彼の分までも幾つであろうと、この身体に憶えておくから。



 そうして、ここにあるものを、失いうること無きように。

   














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