オースチン=オブライエンはひとりの人間であったが、『オブライエン』という名の、ひとりの傭兵でもあった。

 とはいえオースチンのことを『オブライエン』と、ファミリーネームによって呼称し続けた雇い主の姿は、もうここにない。
 いけ好かない男であった。かつては父の戦友であった。言い表せぬ事情を抱いていた。悲願にその命を賭し、そして、実に沈み去っていったのだという。いけ好かない男であった。オースチンのことを父親の代理として、更には狗としてしか見ていなかった。
 実力を認めるべき先達でもあったが、とにかく、いけ好かない男であった。


 そして一体、彼の企みがどのようにして実を結んだものであろうか、デュエル・アカデミア本校という環境はたった今、正しく窮地へと追い込まれている。







 砂漠への調達より帰還し、そのまま不可解な喧騒に巻き込まれたしまった一同であったが、それでも全員が無事にして体育館まで戻ってくるに至れていた。
 それに伴い助け出すことのできた、レイの病状にしてもどうにかして安定している。
 鮎川のおかげなのであろう、と、ヨハンはそう零していた。レイの受けたような傷口とは異なる謎の症状に呑み込まれ、先ほどには十代とのデュエルを繰り広げた保健教諭。レイの身の無事を守るために、彼女はあの孤立した保健室においてその身を呈したのであろう、と。
 オブライエンにしてみても、納得のいかない事実ではなかった。


 とはいえ、そもそも保健の教諭というものに、決して馴染みのあるわけでもない。ウエスト校においては生傷を負うようなことなども殆どなく、そもそも多少のことであれば自分でどうにかする手段を知っていたもので、保健室などという空間には近づいたこともない。
 それなので鮎川にも、本来ならば世話になるような機会などはありえないはずであった。デスクロージャー・デュエルの存ぜぬ追加効果によって消耗した際にも、そのときには味方でもなかった自分にまで手を貸そうとした人の好い剣山を押しのけ、自ら引きずってブルー寮にまで戻った身体である。
 はじめて言葉を交わしたのは、この世界へたどり着いてから程のない頃だ。十代とともにオブライエンは今度こそ、保健室へと運び込まれたのであった。
 意識の曖昧なオブライエンの状態を手早く確かめながらに、彼女は小さくも幾度か息をのんでいた。何を見て驚いたものであろうか、視界がぼやけていようが解らなかったわけではない。オブライエン自身が一番よく知っていることである。褐色の肌は見えるところだけでもかつての傷口、未だに薄く消えきっていない引き攣れた痕などによってそれなりに満ち、決して平らなものではなかった。
 しかしそれらも、本校に来てからの出来事とは一切に関わりのないことだ。手間をかけぬためにも一言だけ、擦り傷がせいぜいで骨はやっていないと、そう呟いて渡した。内臓の無事もおそらくは確かであった。
 すると彼女は暫し間を置いてみせてから、逡巡であったのかも知れないが、ゆっくりと応えてきた。あとで擦り傷の処置をするけれども、痛みを感じたならすぐに呼びなさいと、言う。つとめて穏やかにした声色であった。もっともオブライエンはその後にも彼女を呼ばずにいたので、会話はそこで終った。言葉の通りの治療は、それから幾刻ほどか意識を失っているうちに施されていた。

 そこまでである。
 彼女が今どこにいるのかは、まったくに知れない。
 無事で残っている『大人』はクロノス教諭、ナポレオン教諭、そして購買部を担当しているという女性の職員が二人だけ。追いつめられた状況にあって、体育館に座り込む生徒達は明らかな精神的疲労を淀ませている。




 追いかかってくる生徒達を傷つけるわけにもいかずに防ぎ撒いて戻ってきた面々に、クロノス教諭が駆けてきて水を満たした洗面器を並べ渡した。
 砂だらけになった体を拭くようにということだった。資源に限りのある状況でジムやアモンにしても戸惑った様子を見せ、オブライエンなどは真っ先に断ろうとしたのであるが、それだけでも疲労の回復になるのだからと押し切られる。
 レイのことは任せてくれていい、安心して休みなさいと、イタリア訛りの残る日本語とともにまくしたて彼はまた駆けて去った。十代やヨハンに対しても同じように労い、戻った先を見たならば実際にレイの面倒を見ているらしかった。
 いなくなってしまった鮎川の分まで、己の立場としての仕事を成そうとしているのであろう。状況に馴染めまいとされていた大人達はしかしながらそれなりに逞しくある。彼にしてもナポレオン教諭にしても、自分自身のことなどはそっちのけにして子供達のことばかりを考えているようだ。

 コブラも。あの男にしても常にどこかを、どこか遠いところにある自分自身ではないない何かを見ていたようであったと、オブライエンはふと思い起こしていた。彼の姿もまた、ここにはない。誰も敢えて言葉にはしなかったが、おそらくは。
 どんなに憎たらしかろうと、この場にあればもっとも頼りになったかもしれない男である。多少は強引であろうとも統率する能力を持ち、経験や知識にしてみてもオブライエンにとってはまったく敵いもしない相手であった。


 どこかに腰を降ろさないかとジムに声をかけられ、アモンにも促されて、オブライエンは思考を止めた。
 悪くない機会ではあった。彼らとは現在の状況についてを話し合っておかなければならない。
 十代やヨハン、剣山に明日香、三沢という生徒にしても、この状況下においてしっかりと意識を保っていられるということがもはや貴重な事実であるのだ。そういった人間が指揮を取っていかねばどうしようもない。これから少しずつ時間が経っていくにつれ、誰もが内心に不安を膨らまし、いずれは溢れる水のように零れ出すものがあることだろう。あるいはあらかじめに、一時的な自治についてを考えてみる必要もある。
 どうしてそのようなことをしなくてはならない、するべきだという気持ちになるのだろうかもはや理屈ではよく解らなかったが、オブライエンは内心にてそっと眠らない覚悟をした。
 我が身はこの際どうとでもなろう。元よりここに在る誰よりも、ほんの少しばかりは耐え易く出来上がっているはずであるのだ。おそらくは。
 鮎川がしたように、心からその身を呈することはできないかもしれない。クロノスがしているように、誰ものことを平等に想い、かけずり回ることはできないかもしれない。そして十代のしているように、堂々とした態度を振りまき、周囲の人心を少しでも和らげるようなことにしてもだ。
 それではオブライエンがここにあって為せる物事とは、つまり果たして、何たるか。それを考えなくてはならなかった。






 オースチンは長らく、傭兵として生きてきている。
 執着するべきものはない。作るべきではなかった。とどまるようなことすらない。よしんばあったとしても、実際のところアカデミアという環境へ所属してはいるのであるが、やはりそれは作ってはならないものであった。
 傭兵にとって世界のすべては平らにあり、利害であり、心を注ぐようなものではなかったのだ。
 それでも。それでも、と父は教えた。何かを為したいのならば、傭兵はしかし生き物であるのだから、燃え盛ろうとしている火種に望まぬ水を被せてはならないのだと。
 オースチン=オブライエンは、よく覚えている。

 ここから先はもう、一切に計算の通じない世界だ。雇い主であったコブラは目前よりいなくなってしまった。もうひとつの雇い主であるI2社とも、今には連絡を取ることなどかなわないであろう。
 それではオブライエンは利害なく、何かのために、何をするのであろうか。
 何かを。
 するのであろうか。
 目の前に在る幾十人か、目の前から離れていってしまった、いずこかを彷徨う、もう幾十人かのために。








 ふと顔を挙げると、遠く誰かが手を振っているようであった。
 十代とヨハンである。すでに体を拭くことを終えてしまったのだろうか、両名とも空の洗面器を適当に抱えて、絞ったあとのタオルを握っていた。オブライエンの横では、ジムとアモンがそれに応えている。

 ぼんやりとそのさまを見ていると、動きを止めて声をかけてきたのは、ジムであった。
「……オブライエン?」
「……なんだ」
「どうかしたか?」
 いったい何を問おうとしているのであろうか、オブライエンが訝しげにしてしまうと、ジムは困ったようにして頬を書く。
 すると今度はそのやり取りに気付いたアモンが手を止め、二人に向かってゆるく笑いかけた。
「オブライエン、手を振り返してあげたらどうかな」
「なぜだ」
「こんな状況だからといって、呼びかけに応えてバチがあたるわけでもない」
「……そういうものか」
「確かめようとしているんだよ。僕たちが、返事をできるぐらいには元気でいるのかどうか」
「…………」
 暫し三人の間に、沈黙が流れる。
 やがてオブライエンは小さく息をつき、十代とヨハンのいる方角へ向かって小さく右手を振った。それを確かめたのであろう、十代の方がさらにぶんぶんと腕ごとを振ってみせる。
「ね」
 アモンが小さく笑うと何が可笑しいのであろうか、ジムまでもが声に出して笑う。するとまるでカレンにまでも笑われているかのようであった。
「……笑っている場合ではないだろう」
「イエス、オーライ。でも、こういうときにこそ大切なんじゃないか? こういうことが」
 オブライエンはまたも首を傾げそうになった。
 が、言い返すことは、しなかった。

 それがもしも彼らにとって何らかの意味を持つというのであれば、たしかに或いは、『大切なこと』であるのかもしれない。ともに、生きて戻ろうというのであれば。


「……それはともかく、確認しておきたいことがある」
「ああ。考えないといけないことは……少なくはないだろうね」
「オーケイ。クロノスティーチャーのお言葉に甘えたら、俺はバリケードの材料でも探すよ」
「それなら、僕は……ひとりひとりの病状を確かめて回ろうか。弱っている人間をかためておくと良いことがない。君は?」
「自治だな。芯の強い人間を集めれば、どうにかなるだろう……それから、アモン」
「うん?」
「背中は痛まないのか」
「ああ。それならもう、大丈夫だ」
「…………そうか……ところで、お前」
「なにか?」
「……なんでもない」







 
 かつてひとりで生きていくだけの術を習うに恵まれたオースチンは、しかし考えなければならなかった。
 ここにいる人間が、ここにいない人間も含めて、すべてが無事のまま元の世界まで戻るに至る、ための手段。それだけではなく、それまでどうにか秩序を保つことで、余計な傷など生まれないようにするための手段をも。
 幸いたるのは、決してひとりで答えを出さねばならないような問題でもないということである。
 そうした中で。幾つかの傷を持って幾つかのことを知ってきたこの身体は、少しばかりでも何かの役に立つのかもしれない。

 報酬のない仕事のために身を張ろうとする真似が、傭兵としてはどれだけ意味のないことであろうか、オースチンにはよく解っていた。父にしろプロフェッサー=コブラにしろ、傷つくことまでも生業としてきた先達ならばそれこそ、より深く理解をなしているようなことではなかろうか。
 だがしかし、それでも仕方の無いことはあるのだ。何も関わりなく、どのようにしても動こうと考えてしまうようなときが。
 あるのだろう。
 彼らがそれを直接には教えてくることはなかったが、たとえ『オブライエン』がそれによって今ここで傷跡を増やしたのだとしても、呆れこそすれ嘲笑いこそすれ、理解に至らず無闇に叱ってくることはあるまい。




 あとはここにいる戦場生まれのひとりの若造が、ここに身をもって何を為せるかということ。














 突如消滅したデュエルアカデミア・本校校舎ならびに内部施設が復帰してから後、とにかく島内の喧騒ですら、翌朝になるまでには終わなかった。



 常時に待ち構えていた対策人員はまず、行方不明者、つまりはアカデミアに起こった『何事か』に巻き込まれた面々への対応に追われた。
 誰もが限界に近しくあったのだ。肉体に精神、ともにまるで意識が及ばなかったかのように消耗させている。名簿と照らし合わせて確認をしながらに負傷、憔悴の度合いを確かめ、必要のあるならば島外へ送り出し、なくともひとまずには休養をなせる場所へと運び込む。暫しはいくら人手のあっても足らぬ状況が続いた。
 とはいえそうであったとしても、そうであるからこそ、関係者を除いての入島は一切に遮断されている。記者の類いにしても保護者の類いにしても同様であった。当然のことながら矢のような問い合わせの途切れぬ状態ではあったのだが、それらを受け入れるのには未だ、何もかもが混沌としている。
 事件への直接的な関係者をはじめとして海馬コーポレーションやI2社からの対策人員、元よりの学園関係者、それだけでもキャパシティには充分すぎるほどであった。

 そうした中にあって、当の事件関係者に含まれる面々が、実によく働いていた。
 クロノス教諭などはその筆頭たるもので、すべての生徒の状況を把握するまでは自分も休めないと息巻き身支度もそこそこに走り回っている。また、ナポレオン教諭に鮎川教諭も同様の助力を申し出たものであるのだが、まず鮎川教諭に関しては体力の限界にあった。次いでナポレオン教諭に関しては、クロノス教諭の息子の傍に付いていてやるべきではないかという意見を聞き入れ、そのようにした。
 一方に生徒達の側では、同じく決して良い状況ではなかったものの、動ける者は誰もが尽力を惜しまずにいた。巻き込まれなかった生徒の手伝いを更に助けて、動けずにいる者にはそっと励ましの声をだけをかけ、慌ただしい人波へと入り交じっていく。








 オブライエンは黙して、空を見ていた。
 どこかが『おかしい』、つまりは単に慣れ親しんだこの世界とは異なっていたという意味であるわけだが、最早そのような『空』ではない。ただひとつだけ抱かれた太陽の光と、柔らかな風、運ばれてくる濡れた葉の香り。以前にこうしてアカデミアの景色を見下ろした頃には、また確実にコブラのことを裏切るにまで至っておらず、ゆえに誰にも気を許してはいなかった。
 アカデミアが異世界の砂漠の内に放り込まれた一件において、オブライエンは実に、久方ぶりにあれだけの人数との共同戦線を構築したわけだ。
 よくもどうにか通ったものだとは思う。ただでさえほぼすべての人間が平和な日常のみを知り、そこから唐突に放り出された状態において、神経をすり減らしていたというのだ。事後の混沌など、そこから解放された安堵に比すれば決して大したことには思われないだろう。
 そしてそれだけではなく、そこに重ねて考えてもみれば、オブライエンは相当に長い間を、他者から遮断された己として生きてきたのだ。少なくともコブラに雇われることを決意し、アカデミアに身を置くようになってから後には。

 本校の人間は荒事にこそ馴染んでいなかったが、一方で誰もが状況を放り投げはしなかった。追いつめられながらに自分を保ち、頭を悩ませ、生き残るすべを探していた。そうであるからこそ、それなりの自治を成り立てることも可能であったのだ。
 終わってしまえば小さな諍いなどは、最悪の事態と比して大したことではなかったと、彼らにもそのように感じられているかもしれない。一時は我を失うに陥ったものたちも、今や生きた身が日常の入り口にまで戻ってきているのだから。


(……すべてが、そうなら)

 どれだけ穏やかであったか。
 そのように考え、佇んでいるこの時点において、見渡す景色は以前のものと大きく異なっている。
 実のところ。鮮明でありながらどこかに、色をもたない。

 ヨハンがいない。アモンも、戻ってきてはいない。
 もしも彼らが傭兵としての仲間であったとすれば、既にあきらめを抱いていたことだろう。そういうものであるからだ。互いに築くものは確かな信頼として呼べるものでさえ、どこか不安定にして刹那であった。
 けれども、彼らは違う。
 ヨハンはごく普通の少年であった。この世界においても精霊を確かめる瞳を持っていたようだが、友を助けるに躊躇わない勇敢さの持ち主でもあったが、そうであっても戦に生きて死ぬようなものであっただろうか。
 果たして、覚悟を、抱きながら。
(いや……)
 ヨハンは決して、滅びてなどいない。潰えてなどいないのだ。
 アモンも同様に、彼の場合は、おそらく尚更にそうであるだろう。
 オブライエンは彼の正体を知らない。彼がいったい何を考えて、何を為さんと動いていたのかを知らない。ただ、予感が正しければおそらく、アモンに限っては逆に『普通の少年』ではなかった。オブライエン自身と同じぐらいに、あるいはずっと、安定を成していたように思われる。何かを知っているようにも見えたし、いざともなれば己の身を守ることができる人間であったのではなかろうか。
 だから、生きている。はずであると。
(……そうであるなら。いいと思っているのか、俺は)
 終ったことやひとの運命を乞い願うなどとはおこがましいと、いやでも感じさせられてきて、幾度になろうものであろうか。けれども未だ『絶対』ではないのだ。戻らぬ彼らの道行きはしかし決した確かめられたものでは、ない。
 それだから。

(だから、何ができるというんだ。俺に)


 彼、十代は、どうしているであろうか。
 蓄積された疲労はどうにもできず、眠りの中へと沈んでいるような頃になろうか。
 それとも、そうであることすら叶わずにして、より深く。
 震えているのであろうか。

 かといって、いったい何ができようというものか。
 何をしようというものか。
 おそらくは穏やかでいるはずのない彼が在るとして、そこに、自分が。




 そこまできてオブライエンは、我が身へ近づいてくる何らか、人のものであろう気配を感じ取って視線を上げた。
 悪意の抱かれたようなものではない。少なくともあちらの方からでは警戒心などを纏うことのない、そして緊張感にすら乏しくある、草を踏む足音。
 振り向けば視界へとうつるようになるであろう、距離を暫しはかってから後に、問いかける。
「誰だ」
 すると、覚えのない声色が応えて返した。
「……はじめまして?」
 柔らかに響くそれは、こちらを向いてみろとばかりの色合いを伴っていた。









 振り向くとそこには、身の丈の高い男が佇んでいる。
 とはいえジムほどではなかったかも知れないが、おそらくは三年生なのであろう。服装はブルー寮のものであるらしいのだが、やや異なっていて、どちらかといえば女子の制服にも近しい。
 顔立ちはどこかで、いずこかで見たことがあったかも知れなかった。あるいは、誰かしらによく似ている。


「……なにか」
「あっちで何人か、君のことを探しているんだよ。僕と同じブルー寮の連中なんだけれど、疲れているだろうに医療班の検診を受けないままでね……君が誰より休んでいないんだから、一番に受けるべきなんだって言ってる」
「…………」
「隊長、っていうのは君でよかったのかな。ウエスト校の……オースチンくん?」
「オブライエンでいい」
「じゃあ、オブライエンくん。僕は天上院吹雪だ」
 男の笑みは穏やかであった。それでも端々に安堵のような感情を隠せていない風があるものだが、なるほど、その名をよくよく噛み砕いてみれば、理解の至らぬものではない。
「天上院……天上院、明日香の」
「僕の方にわけあって、今は同じ学年にいるんだけれど。彼女は妹でね」
 やはり特別に警戒した様子はなく、彼はむしろ喜んでオブライエンの横にまで並んでくる。
「休まなくてもいいのかな?」
「いま、こうして何もしていない。シャワーなら済ませた」
「眠っても構わないのに」
 そう笑み零しながらにしかし、強く促してやろうというわけでもないらしかった。
「いや。けど、君自身がそういう気分でないのなら、仕方がないよ」
「…………心配なら、ほかの連中にでもしてやるといい」
「みんな一緒さ」
 彼、吹雪は、オブライエンと同じ方角を向きながらにはっきりと首を振る。
「ここにいない誰か、のことが気がかりなんだろう。それも、どうしようもないことさ」
「……そうか」
 それだから一体どうしたのだと、言いたげなところを読み取ったのであろうか。吹雪の人差し指が元来た方向を示そうと伸びた。
「だからね。これから僕はレッド寮へ行こうと思うんだけれど、君はどうかな」
「なぜ」
「みんな、そこに集まっているだろうからさ。あそこの食堂はひとつの溜まり場なんだ」
 オブライエンが黙したままであっても、不愉快のひとつ点さない。
 感情をはっきりさせた性分であるように思われる天上院明日香と、見た目の雰囲気の通りに、性分まで似通っているというわけではなさそうである。あるいは血を繋げてこそ、そうしたものであろうか。少なくとも、兄弟というものを持ったことのないオブライエンにして、あまり語れるものではなかった。
「集まって、何をするというんだ」
「日本のことわざに『三人よれば文殊の知恵』というのがあってね」
「Two heads are better than one……いや、『The more the merrier』か」
「『多ければ』?」
「『多いほどにいい』」
「ああ。きっとそんなものだよ」
 可笑しそうにして微笑むと、頷いてよこす。
 かと思えば、そこから瞬きひとつのうち、吹雪の表情は幾らか真面目な風へと、つくり替えられていた。

「オブライエンくん」
「……なんだ」

 そこでオブライエンははじめて、彼の方へと真っ直ぐに視線を返した。
「きみは、傭兵なんだって。そう聞いたんだ」
 意図は知れなかったが問いかけに対しても、頷いて渡す。
「そういえば……これまでには話をする機会もなかったね」
「そうだな」
 さらに再び肯定をなす。
 話をしたことがなかったというのであれば、実際には誰にしてもそうであった。彼のみならず例えば彼の妹、言葉を交わしたことならば辛うじてあったヨハンや十代にしてみても、同様である。得体の知れない世界へ飛ばされて行くまでに、この本校において、オブライエンはそれこそ『まともな会話』など殆どこなさずにいた。プロフェッサー・コブラに対してすらも偽りを続けてきたものである。
「僕はね。傭兵という生き方を、ほんの理屈でしか知らない人間だ」
 品の良い声色は、相も変わらずにゆったりとしたままに語りかけてきていた。
「けれども、君が信頼できる相手だっていうことは解る」
「やめておいた方がいい」
 言い切ると、少しばかりにその両瞳を見開いた様子が確かめられる。
 誰に対してもそうなのであろうか、天上院吹雪のあり方に、オブライエンは首を傾げていた。オブライエン自身から、既に、首を傾げていた。
「傭兵は身内を裏切らない……」
 約束をできない者は、為すべきを成すこともできない人間であるとされる。
「それでも利害のためならば、命に遠いものから順に切り捨てていく」
 しかしながらに計算をする。必要であると感じたときには、偽りもすれば裏切りもする。そうしたものであるということを、肌に感じたことのない人間が、信頼を寄せるような対象ではあるまい。

「……そうかな」
「そういうものだ」
 ところが吹雪は、どうしてか再び、浮かべた笑みを深めてみせた。 
「だって君はここで、見ていたじゃないか。どこかを」
 またしても意図の知れない。何と返すべきであるのかを解しきれずに、オブライエンは、緩くして呟く。
「……どこでもない」
 見かけに、どこかを眺めているようではあったのだろう。佇んで両眼を開き、そして、どこかを。
 そうはいっても、それが実なる『いずこか』であったというわけではない。
「どこでもない、どこかをさ」
  そんなオブライエンの内心を既に読み取っていたかのように、吹雪が続けた。
「ようやくこの世界へ帰ってこられたっていうのに、難しい顔をして、自分のことじゃあない『何か』を見てる」
 涼やかな瞳が、淡く細まったようにも感じられる。愛想よく笑み送る仕草とは、またどこか異なっているようであった。眼差しは受け流すようにして柔らかだ。
「そして、君のことを探していた人間がいる。何人もね」


 オブライエンはそこからふいと視線を逸らすと、先ほどに『指差されていた』方角を向いた。吹雪のやって来た道である。そして彼の言う、『レッド寮』へと繋がる道でもあるのだろう。

 我が内心のことなど、オブライエンには、やはり解らなかった。
 どちらにしても、意味など成さぬところである。







「……それじゃあ、行こうか。ちょっとした近道もあるんだ」
「知っている。……概ねな」
「あれ」
 ひととき驚いたような表情をみせると、続けて彼はすんなりと頷く。
「それなら話は早い。そこからにしよう」
 先へ立って歩み出すその背に、オブライエンもゆっくりと続いた。
 そして、黙ってしまおうとするより前に、ひとつだけ問いかけをする。
「…………十代は」
 すると吹雪は振り向かず、躊躇いもしない。
「……すまない。実はまだ、僕も会っていないんだ」



 そこそこに整えられて道を成す、土より外れて、ふたつの影が近道をする。決して広すぎたような島であるというわけでもない。どこをどのようにして行けば、どこへと辿り着くのか、森林の奥などに踏み入ることさえ避けておいたならば、誰にでも知り尽くすことのできる空間であった。
 それでも、多くの子供たちは知らずにいる。大人たちとて同様のことである。
 いずこかをどうにかと行って、辿り着いたどこかに、たった今、一体どのようなことが起こっているものか。
 例えばそこに在るものが、いったい、何を思い深めているものであろうかと。



「けど」
 暫し間のあいた後、穏やかな声色は、幾らか控えめにして付け足された。
「行ってみれば、何かは解る……かも、しれないね」
 それは決して確証ではない。


 つまりはこれより向かっていく、その先こそが、単に最も真実と近くあるのだ。
 そこには彼が在ることだろう。
 おそらく、彼が在ることだろう。
 何かしらがここに無かろうことと等しく、ただ、最も高き確率を伴って。
 彼が、そこに。
 





 十代。
 十代は今ごろ、いったい何を、どのようにしているものであろうか。少なくとも、柔らかな風が草の香を運ぶ、この場所、ではないどこかににおいて。
 深くにあるのだろうか。空を見上げながらに、物思いのような真似をしていた己などより、幾らも。
 そうであるのかも知れない。

 そうであるのだとするならば、果たして自分はそこへと向かい、何を為そうというのであろうか。
 標を掴み取っているわけでもない。元より、そのようなことを為そうという必要すらが、ない。
 利害でいうなれば、どちらとも知れなかった。むしろ危うきの方が近しくあるのかも、解らない。
 それならば今すぐにでも、どこかの戦場へと舞い戻り、かつてそうしてきた様に立ち回ることをして、そうすれば。少なくとも、目前の謎へと、巻き込まれずにいることはできる。
 できる、というのに。
 両足は吹雪の背に続くことを選んで、彼の行く方へと向き歩んでいた。


 ここに黙して 、佇んでいることに比して。
 先の見えぬ何らか、それを抱くこの小さな島から、立ち去り消えいくこととも比して。
 オースチン=オブライエンはその道を、道なき道を、選択したのである。





 
 そうして、もしも、彼のその肩が震えているのであれば。
 たったひとつの『意思』、それ以上でなければそれ以下でもあるまい、この腕は。
 いかにして。














 夜闇には幾度も救われてきたはずであるというのに。
 今ではこうして包まれることによって、実に、悪夢でも見せられているかのようだ。






 呼吸をなす音すらも殺すことには、命を守るべくという意味がある。ところがそれも肝心の、意識が不安定に過ぎるのであれば、どうしようもない。 
 オブライエンは、その息を殺していた。塞ぐようにして殺していた。閉じ込めるようにして、抑え続けていた。
 思い返すことをも拒みたがる、かのように。
 しているというのに、脳裏にはもっとも受け止め難い出来事ばかりが、幾度も幾度でも、繰り返しておりる。
 もはや仮想ではない圧倒的な力が、現実に生身を貫くさま。信頼に足り、戦友と気を許したはずの男の命が、目の前に溶けて潰えるさま。

 悪夢だ。
 しかしながらに、悪夢、ではない。すべてはうつつにあったのだから。
 せめて瞳をかたく閉じ、闇ではない闇でもって、目前を遮断してしまおうとする。

 そんな風に為そうとしてみても、もうどうしようもないのだということを、本当はとうに、理解していなければならないはずであった。



 降り掛かるそれは実に、恐怖であるのだと思われる。
 認めておかなければならなかった。そして、抗わなければならないのだ。
 怯えることにとらわれた身体は、容易く罠にかかる。毒に弱る。いずれは熱を失い、滅びていく。
 しかも、敵地に在るのだというのに。
 敵地。どこまでが。どこまでもが。
 それだからこそ恐怖することに、足をとられたままではならない。罠にかかった獲物が、そのまま黙して刃を待ち続けるようなものだ。
 
 それでも、今やオブライエンにとっては、為し難い制御であった。押さえ込んでしまえるはずの恐怖という感情が、怯えをあらわしての震えが、眩む視界が、まるで何をも知らなかった頃に見たかのような、かたち定まらぬあやかしへと変わる。
 そして容赦もなく襲いかかってくるのだ。
 どこか深い泥の底から手招きをし、足首を掴んで、引き寄せてくる。

 どのようにすれば。
 どのようにすれば良かった。こんなとき、どのようにすれば上手くいった。
 かつて幼かった日のオブライエンが、目に見えぬことをおそれ、幻に怯えていたころ、いったいどのようにして、それに抗う術を覚えたか。







 おぼえておきなさい。
 とらえる闇は、ふとその匂いを嗅ぎ取ってあたりを見回したとき、もう既におまえのことを包んでいるのだ。

 絡まってしまった糸だまをどのようにしたらいいか、考えてみなさい。指でもって、もがこうとしてみても解けてはくれないことだろう。
 ゆっくりと触れて確かめなさい。
 何がどこと繋がっていて、どのような場所にあるのか。そうしてこれから、何を必要とするのか。
 出来事は変質より始まるのではない。そこにある物事を、段々と囲むことから始まる。
 しかし、それでも。
 絡んでしまった糸は即ち、未だ決して、途切れてしまったわけではない。

 同じことだ。
 闇にとらわれてしまうのならば、どのようにして、それを解こうかを考えなさい。
 火を焚いてみて明かりをとるか。入り込んでくるというのであれば、どれほどに抗い、取り込まれないでいるべきか。あるいは平等に降り注ぐ夜が、お前を救うこともあるかもしれない。
 『目に見えぬ』闇は大袈裟にではなく、すぐにでもわたし達のことを包んでしまうのだ。
 当たり前のようにやって来て、嗅ぎ取ったときには、もう、そこにいる。
 だから、おぼえておきなさい。

 いつか潰えるわたしの姿を、おまえが知ることはないだろう。
 いつか潰えるおまえの姿を、わたしが知ることもないだろう。
 このまま、傭兵という立場を続けていこうとするならば。
 おぼえておきなさい。








 ひとつ咳き込み、現に戻る。


(……夜は)
 大地に生けるすべてのものに、平等にして降り注ぐ。
 しかしこの、世、に朝のあろうか。明けない夜がいつまでも続いていくだけではないのか。
 そして『彼』は夜を支配し、ひとつの命を、ジムのことをも呑み込んでしまっている。
 『夜』を。
 この世界のすべてを。

 逃げていくための場所など、ありはしないのだ。よしんばここでまた扉が開けて、もと来た世界に逃げ出せるのだとしても、決して逃れきることはできないだろう。
 闇は既にして、我が身をとらえているのだから。
 


 薄く瞳を開けど、オブライエンが見るのは、灰色の世界ばかりだった。
 廃墟と化した民家の内である。狭く遮られた場所へと逃げ込んでしまいたい一心から、身を潜めた空間だった。
 神経は過敏なほどにも、己のほかの鼓動を探している。迫り来るものがあるのだとしたら、それは『死』を象った何らかであるかも知れない。それならば抗わなければ。

 『死』には、抗わなければ。
 そうしなければ、生きてはいけない。解りきっていることだ。
 
 夜のもつ闇と同じことであった。どのようなものに対すれど、平等にして降り注ぐ。
 おそらくは平和に暮らしてきて、傷跡のない体の持ち主として在った、彼らにも。確固たる信念によって護られていたはずの、あの男にも。
(ジム)
 ジム。カレン。
 目前に呆気なく溶けていったその姿が、今でも離れずに焼き付いている。
(すまない)
 そして、そこから逃げ出した、己が。
(戦えなかった)
 いったい何ごとを隠せようものであろうか。


 同じようにはなりたくなかったのだろう。同じようにして溶け潰えていくことがあまりにも恐ろしく、そうなるであろう現実を自覚せずにはいられず、臆病になって、逃げ出したのだろう。
 そこから。
 残る運命のつなぎ目を託してきた、彼ののぞみを、置き去りにして。





(……こわいんだ)
 いったい何ごとを隠そうものであろうか。
 そうして、何を為せようものか。何ひとつ守れないまま、必死に己が身ばかり保とうとしている自分が、いったい、何を救えるのだという。
(……怖いんだ、俺は)
 前へと進んで挑むこともできない。
 すべてを放り出し、去っていくこともできない。
 潰えていく彼の姿を、幾度も幾度も繰り返して思い出すのは、それならば縋るためでもあるのだろうか。


(…………てくれ……ジ、ム)


 次いで、自ら首を振った。乞い願う資格もあるまい。
 何ひとつ守ることのできなかった非力な腕が、これ以上にどんなことを為せようはずもない。
 せめて何にも頼ることなく、在るようにしなければ。どうせ最早、つなぎ目を背負うことなど、できるわけでもないのだから。
 欲してはならない。
 縋ってはならない。
 嘆いてはならない。
 戦うことができない。
 それならば、敗者として存在することを認めるというのであれば、あとは何もあってはならない。


 そして彷徨い、果たして、どこへ向かおうというのか。




(どこでもいい)

 すべては未だ、瞼の裏に焼き付いている。消えることなき炎のごとく。
 この世は闇ばかりによって包まれているのだというのに、炙る熱は這うまま、弱まる気配も見せずにいるのだ。

(どこでも…………?)


 いったい何処まで逃れていけば、何をも構うまいと、そう思うことができるのだろう。









 彗星がひどく長い尾をひきながらに駆け、朝を待たぬ、世界。
 オブライエンはもうひとつ震えた。救われよう術を知らぬがゆえ、砂のようにして不確かとなっていく、その身を抱き保ちながら。
 そうして、もうひと度に、闇色から追いつめられる悪夢へと沈んでいく。
 ここにはそれしかなかった。


 他に何らか縛りくるものも、解き放たれた虚無も、どちらにしても決して、縋らせはしないでいる。














 その言葉を十代の方から、ふと漏らしてきたのは、いつのことであっただろうか。
 ひとつめの異世界、あの得体の知れない砂漠の内にあった、確かそのときではなかったか。おそらくは間違いのないかと思われる。互いの名を覚える機会こそ学期の初めではあったが、気を許すにまで至るところはその頃から後のことであり、余裕をもって会話を繋ぐことのできたような期間は、尚更に短い。それこそ一週間にも満たなかった。
 そして。本来ならば決して気の休まることも無かった、あのような場所において、思えば随分と緊張感の足りぬ会話をなしたものだと。今更ながらに考える。

 そのとき十代はオブライエンの表情を覗き込みながら、どこか嬉しそうにして笑っていたのであった。何を言いたいのだと問うてもみれば、返ってきた答えをもって、より更にわけの解らないようになる。

「今は怖くないな、って思ってさ」
 彼は、そうとだけ応じた。
 その意味も解らず、続けかねていると彼は、もう一言だけ補足を寄越した。『はじめてきちんと視線を合わせたとき』には、もっと『怖い目』をしていた、のだと言う。

 十代がいったい何をもって、それは『怖い目』だと称しているのか、その際のオブライエンにはやはり意味が解らなかった。会話はそこで終い、決して退屈な状況のもとでもなかったがため、以降に繰り返されることもなかった。








 瞼へ手を伸ばし、指先に触れれば、既にもう乾いている。
 幾どきか前には、恐怖の感情に耐えきれずで濡らしたような頬だ。そんな風にして感情を現そうことなど、思えば果たしてどの程ぶりであっただろうか。もう、覚えてすらいなかった。
 ただ、今となっては、そういった感情の気配すらもが『ここ』に残されていない。我が身を抱く暗雲は、いつの間にであろうか、どこかへと離れて散っていったのだ。闇の内にあってもがき、なりふりを構わずに彷徨いはしたが、しかし今では、少なくともこうして前を向いていることができる。
 あとは歩いていくだけだった。怯えながらにも引き継いだ意思を、確かに伴い、そして、彼のもとへ。 
 そうしてオブライエンはふと、『そのこと』を思い返したのであった。


 かつて十代とのデュエルを行ったとき、はじめて言葉を交わしたときに、果たして自分はどういった『目』をしていたであろうか。
 コブラへの不信感が決して、確固たるものではなかった頃である。I2社からの接触を通しては、何事もなければそれで良し、何事かを感じ取ったものであれば、どうにか判断してみてくれと、そのように言われていた。
 遊城十代は、敵ではなかった。そして味方でもなかった。
 どちらでもなかった。プロフェッサ=コブラに雇われ、I2社に雇われる、傭兵の『オブライエン』から見て。利でもなければ害でもなかった。つまるところ、未だ定まってはいなかったのだ。彼に限った話ではない。誰もが同様にそうであったし、そうであることを特にして、気にもかけていなかったのではないだろうか。
 言動のすべては、ただ命じられるがままに。そういった中でのことだ。
 夜闇の中を駆けてきたヨハンや十代のことを、そのとき、いったい、どのようにして。

 その答えを知っているのはそれこそ彼ら、ヨハン=アンデルセンと遊城十代であるのだ。今ではその二人ともが、オブライエンの目に見える場所には、いない。
 思えば。確かめるための機会は決して、ないではなかった。意識さえしていれば、あの限りなく短い孤立した時間の中に、その意味を問いかけることもできたのであろう。
 しかしながら。
 それも今となっては、二度と来たることのない瞬間であるのかも知れない。


 それは決して、彼らを救い出すことを諦めようという、そういった心持ちではないのだ。
 ただ、オブライエンにも、こうしてよくよく落ち着いてみれば、取り戻すことのできる勘というものがある。人生の殆どを傭兵という立場から意識してきたからこそ、予感せずにはいられないものがあるのだ。
 この仕事が。
 この『仕事』が終えば、そのときには。






 オブライエンは黙したまま、目前に在るものを確かめた。
 縛り上げられた冥界の番人の横で、何事かを話している、エド=フェニックスとヘルカイザー。丸藤翔も、どこかに生きていてくれることであろう。彼は一時のオブライエン自身と比しても、余程にしっかりとした精神状態をもって立つことができていた。
 それならば何も、案ずることはないのだ。成しうることを残していくだけ。確実に何らかを、残していくことだけができるのであれば、それで充分となるはずであった。


(十代。今から、お前のところに行く)

 そして、覇王の在るところへ。
 覇王という存在がいったい何ものであるのか、それは未だ、オブライエンに知ることのできる範疇ではない。ただ、それでも十代には、いま一度戻ってきてもらわねばならないのだ。蓋を閉じきるのには、まだ早すぎる。それをとどめる権利など、オブライエンには無いものであるかも知れなかったが。
 彼には未だ、本来に、成さねばならないことが残っているはずであった。
 ヨハン=アンデルセン。


 あるべきと、なすべきとをひとつずつ確かめてから、オブライエンは一歩を踏み出した。
 これから十代の在るところへ、即ちは覇王の在るところへと、『行く』。そのほかには何もない。もう定めてしまったこと、ここに整ったことであるのだから、ほかには何も、ない。
『十代』。語るためにはあまりにも不確かであって、しかしながらにそれでも、ほんの少しばかりは知っている、はずの。
 となれば果たして、次にはどのような『目』をもって、彼と向き合うことになるのであろうか。

(まだ、潰えないでいてくれるか)

 声には出さず、問いかける。そこから返る答えはない。


 けれども、そのためにであれば、たとえ。
 たとえこの身が、異界のうちに燃え尽きてしまおうとも。




(…………十、代)





 

 そうして行く先に、戻るための道など無くとも、既に。


 すべての覚悟を終えかけている。

     











 いずれもお題に沿って、やや続き物にして書かせていただいたものでした。
 書いている間に原作(アニメ)展開と矛盾してしまったため、大丈夫そうなところだけ抜き出してあります。




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