ふと、自分の右手が何かを握っていることに気付く。
 カードではない。手札はすべて使ってしまったはずなのだ。
 オブライエンはゆっくりと指を開いて、零すことのないようにそれを確かめた。 
 握られていたのは、紅に透き通る小さな石であった。弱々しくも未だ光を瞬かせている。

 オリハルコンの眼だ。
 ある男が最後の最後にまでその身に抱き、後にはその信念を託して遺したもの。オブライエンの信念はひととき、彼のそれと共鳴していた。

 次いで気付かされたのは、自分の身体が確かなバランスを伴っていないらしいということだった。どこか曖昧なまどろみの中に在るようだ。
 とにかく、体を起こさねば。そう考えて上体に力を込めると、思うよりも楽に浮上する。
 半身を起こしたオブライエンは驚いて視線を上にやった。
 『彼』の眼を握っていたはずの右手がいつの間にやら、誰かの右手と重なっている。それがまどろみの中に横たわっていたオブライエンを手伝い引き起こしてくれたものらしい。
 オリハルコンの眼の小さな感触は既になかった。その代わりに現れた温もりの先に繋がる、それは。



(……ジム?)

 オブライエンの見上げた先に、ジムの姿があった。
 その右の眼はかつての様に隠されている。長身の背には相変わらずで、カレンの姿がある。
 彼の差し伸べている右手、それこそがオブライエンの右腕と繋がっているものであった。

 オブライエンから、すぐさま放てる言葉はなかった。言葉にして放つことを出来ずにいた。
 一度は逃げ出してしまってすまなかったと。
 あのときお前が力を分けてくれなかったら、いや、幾度でも静かに励まし続けてくれていなかったなら、あそこまでは行けなかったかもしれないのだと。
 だから十代はお前のおかげで救われたのだ、と。
 わき上がるすべてが喉の底にまですらも至ってくれない。

 するとジムの表情が和らぎ、ゆるやかに微笑んでみせた。
 ともなっていずこかより響いてくる音がある。幾度も耳にしてきた、彼の声のそれであった。

「……Thanks」

 どうして、お前の方がそんな風にして礼を言うんだ。
 ジムはその声なき問いには答えず、笑みをたたえたままゆっくりと右腕に力を込め、もう一度オブライエンのことを引き上げる。あっという間に二人は、互いに立ち上がった状態にて向かい合っていた。
 周囲には何も見えない。しかし彼は確かにそこに在る、ように思える。
 あるいは幻のようなものでも見ているのであろうか。そうも考えたがしかし、右手と右手との重なる確かな感覚は、オブライエンのよく知っているものであった。
 間違いなく『つい先ほどに』感じることによって知った、はずの温度だ。

(そこに、『いる』のか? ジム)

 俺のことを一番に支えていてくれたのは、お前だった。
 俺は決してお前のようには勇ましくなかったかもしれない。けれども、そうであるからこそ、お前の見せてくれた信念に最後まで救われたのだ。
 


「Marvelous、fight! ……オブライエン」

 向かい合ったままでいるジムの表情が屈託なく笑う。
(……つくづく、俺から伝えたかったことを先に言ってしまうんだな)
 オブライエンの言葉は、それでも未だにどこへも出てはいかない。




 お前がのこしたものを片手にずいぶん情けのないさまも見せたが、俺は、その信念を引き継ぐことができただろうか。完遂することができたであろうか。
 そうであったならばいいと思う。
 あとのことは他の連中に任せることができるだろう。十代はきっと無事だった。傍にはヘルカイザーもエド=フェニックスも在るし、翔も合流している。
 そして、ヨハン。彼も生きているというのだから。


 ひとつずつ考えながらに確かめていると、ふと額に何かが触れた。
 どこか肌へと馴染む温もりは他者のそれ、ジム、彼の掌であった。
 どうしたことかと思っている内にゆるりと撫ぜられる。
 まるで小さな子供を相手にするかの風な、実に穏やかな慰めだ。ずっと幼かった時分、戦場での掟を覚えられる歳ですらもなかったころに父親から与えられた、記憶の内に眠る微かのように。
 
(……なにを)

 慈しむにも近しい。無条件に柔らかで、そして優しい。
 同い年のはずでも身長の高い彼にとって、それはきっとごく容易い動作なのであろう。そして決して悪意ではない。かけらほどもそうではないことを理解はしたが、しかし何かがむずがゆかった。
 気恥ずかしいのだ。
 眉を顰めて問いかけようとしたところで、しかしオブライエンは押し黙った。

 幾度目か、見上げたジムの微笑みは相変わらず柔らかくきれいに在った。
 それもまたオブライエンの欲しかった、どこかで期待していたようなものであったかも知れない。
 あるいは走馬灯に含んだ幻かなにかであろうか。それとも本当に彼が、己の成したことを認めてくれているのであろうか。

 彼の導きとともに引き出したヴォルカニック・カウンター。最後の手札。伏せられ黙していたファイヤーサイクロンを活かし、戦いの結末への土台をなしてくれたもの。
 その柄を確かめたとき、オブライエンは決意をなしたのだ。
 そして終局を組み立てた。
 彼はそこにいる。オリハルコンはきっと十代のことを救ってくれるだろうと確信していた。
 どうしようもない重圧を抱く闇色に伏せて怯えるほかのなかった、自分自身のことを引き上げてくれたそのように。
 少なくともあの一瞬だけは、決して幻ではなかったのだと今でも感じている。



「…………ありがとう。ジム」
 ようやく声のようなものとなって出ていった言葉とともに、オブライエンは目を閉じてゆっくりと微笑み返した。






 自分自身にとってのお終い、死んでしまうときのことについてを改めて思ったようなことはあまり、ない。むしろ『死なないでいる』ためとしての方を考え続けてきたのではないだろうか。
 コブラの策によって幽閉されたとき。押しかかってくる壁から逃れはしたものの、ふたたび閉じ込められてしまったとき。先も解らぬ異世界へと飛ばされたとき。覇王に怯えてすら、防衛的本能からなる恐怖によってとらわれていたのだ。
 ましてや、笑って死のうだなどと覚悟してはいなかった。そんなことができようとも思ったことはなかった。

 それでも。
 消えていく己の身体を感じたとき、きっと自分は笑っていたのだろうとオブライエンは思う。

 相打ちの覚悟は出来上がっていた。残されたライフを数え、彼とともに引き当てたカードを確かめたその時にすべては定まったのだ。
 彼の信念を預かってから以降、すべてはほんのひとつの仕事に過ぎない。そして確かに満たされ成されたものだ。
 やり残したことは強いていうのならば、あともうひと欠片。ジムにも、そして他の連中にも遅れをとってしまいはしたであろうが、それに続いてもきっと罰はあたるまい。



「おかえり、十代……」






 額に、そして右手にも、なお保たれ続けている温もりがある。
 薄暗闇と危機との内にひととき触れた、彼のその熱は間違いなく己を救うものだった。

 もしも、もしもまたいつか、十代と何らかの影とが向き合う日の来るとしたならば。それが押しつぶされそうな重みというだけではなく、彼へと温もりを知らせるものであったならば。
 それを確かめることができないかも知れないということだけ、ただ、心残りにくすぶっている。



 オブライエンは改めて、ゆっくりと両の瞳を閉じた。
 温もりと伴に得る休息という名の闇は、決して恐ろしいものではなかった。

 














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