『どうぞ、どうか、急いでここから立ち去って、お行きになってください。
けっして振り向かないように。
ひとかけら残さず、無かったように。』
いいえ、いいえ。
確かにもう、僕がここへ帰ってくることはないのかもしれません。
けれども僕はこの道のことを覚えておきます。そのままにしておこうと思っています。
この場所のことはきっと忘れてしまうのだろうけれど、これから通るべき道のことを。
『ここ』へと繋がっている、この道のことを。
テレビの画面の中に、顔を白塗りにした男と女がひとりずつ、くるくると舞うように踊っていた。
外国の舞台を紹介したものだった。それだから、言葉も歌も聴いただけではどうにもよくはわからない。
それでもときどき画面の下に出てくる日本語の、解るところだけでも繋ぎ合わせて、それがいったいどんな物語であるのかを理解することはできた。
かわるがわるに出てくる人々の中にあって、白塗りでいるのはその、たった二人だけだった。
男は女に恋をしている。女はそれはかわいらしく歌った。誰もが口々に彼女をほめ讃える。
けれども女は実のところ、本当は、人間ではなかったのだ。とてもとても美しい娘、ではなく、とてもとても美しい人形だったのだ。
男はそれを知らないでいた。そして、彼女に恋をしている。あるとき、彼女がついに『壊れて』しまった。
何も知らずに恋をしている男の目の前で、人形として、ばらばらになって壊れてしまった。
すると白塗りは男ひとりだけになった。
残された彼はまるで、本物の道化のように大笑いされていた。
そのあと、男がどうなったのか。
そこまでについては解らない。以後のことはテレビに映らなかった。
光る画面のスイッチを切って、静かになってしまった部屋の真ん中で、考える。
ひとりで黙って考える。
この手はもうじき、君を失ってしまうのだ。
もう、そうなるための準備をしているから。
すべてが終われば僕は君のことをすべて忘れて、それでも今のようにして生きていくことは忘れずに、またここへ帰ってくるのだと思う。
僕が壊れるわけじゃない。君が壊れるわけでもない。
僕にも君にも、スイッチなんてついちゃいないから。
けれども僕は君を忘れる。
そうなったら、あの幸せな恋をしていた男のひとのようにでも、まるでピエロのようにしてうつるものになるのだろうか。
どのように。誰にとって。
どうして。どちらが。
いずれでもない。
忘れてしまうということは、何にだってなれないということなんだろう。
幸せな恋を失ってしまった男は、かわりの人形をほしがるだろうか。それとも代わりなんてあるわけがないと叫ぶのだろうか。
僕には、かわりの人形は必要ない。
だってそれは決して移し身にはならない。
たとえ君をはじめから人形だったという風に錯覚するんだとしても、それではやっぱり君にはならないから。
君はここにしかいなかった。
そして、今ではずっと向こうに、いる。
僕はこれから、すべて忘れてしまいに行くんだ。
指先と指先とを重ね合わせることなどなかったけれども、それなのにどうしてか触れたときの感覚を憶えているような気がする。
いったいどこから出てきたのだろう。それがにせもの、であるようには思えない。
触れている。同時に、触れられてもいる。相互される熱、音、思い出。
どうせこれから忘れてしまうんだというのに。
そうしなければ生まれてしまう喜ばしいとは言われぬ事柄を、もはや見ないでいるわけにはいかなくなった、それだから。けれども、それでも、知っていようと思う。
許されるためなどではなくただ、覚えていなくとも『知って』いたいと思う。
この場所のことが何もかも隠れてしまったとしても。ここへと繋がる道のことだけは、せめてそのままにして残しておこうと思っている。
覆ってまったく塞いでしまいたくはない。
忘れて、しまってもどこかで知って、いるままであるように。
そんな風にして考えている以上には、きっとすべてが覆われることなんてないのだろう。
だってそこに『あった』ものごとは決して消え去ったりはしないんだ。
何ひとつだって嘘にはならない。
きみはきみで、きみとして生きていて、ここにいたのだということが。本当に真っ白になってしまうようなことはない、はずだ。
いいことなのか、それとも、悪いことなんだろうか。
わからない。
目をとじてどこかへ問いかけみても、やっぱりわかるはずがなかった。
それでも。
きみにかわる人形をつくれない。
触れられなくたって確かめることのできたきみの姿も、
ささやいては教えてくれたきみの声も、
すべてきみにしかないもので、
おもうだけでは現すことができないから。
そうして俺は、やがてお前の夢すらもみないようになる。
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