どうか、ぼくのぜんまいを巻いてください。
 とまらない涙とあそんでいるうちに、いつの間にかにきれてしまったようでした。
 だれかの抱けるよろこびよ、かなしみよ、どうか手をかして。
 行かなければならない『彼』があるのです。










 ねえ、ユベル、知っている。
 あそこに飾ってある人形、動くこともしゃべることもできるようになってるんだってさ。

 知っているよ、十代。あそこにはみ出ているぜんまいを巻けばいいんだ。
 そうしたら、ものを言いながら歩けるようにもなるのだけれど、ぜんまいが戻るとあっという間にへたりこんでしまう。

 おなかがすいた時のぼくみたいだ。

 そうかな。
 十代だったら冷蔵庫までいってチョコレートを取り出したり、たまごを割って目玉焼きをつくることだってできるだろう。

 うん。
 トーストの焼き方だって知ってるんだよ。

 もちろん解っているさ、十代。君はとっても器用なんだ。僕はよく知っているよ。
 ねえ、あの人形が欲しいのかい。ぜんまいを巻いてあげたいの。

 ううん。だってあれ、女の子のためのおもちゃだろ。
 それにぼくはカードの方が好きだから、誕生日のプレゼントにもカードを買ってもらうんだ。もう約束してあるんだよ。
 ユベルにもともだちが増えるね。

 僕の一番のともだちは君だよ、十代。

 うん。
 ユベルはぼくのともだちだ。


 もう帰ろうか、十代。新しいデッキを作るんだろう。

 そうだね、帰ろう。
 おやつを食べて麦茶を飲んだら、宿題は、あとでもいいかな。
 明日のデュエルのために、新しいデッキを組もう。



 楽しいデュエルになるといいんだけれどね。
 ねえ、十代。









 人形は、自らの手によってではそのぜんまいを巻くことができない。
 それが出来るようになっているのもあるんだろうけれど、できたとしても飢えたということに気付いているわけじゃない。あらかじめプログラムによって約束されているだけのことだ。
 そして彼らはいつだってとても冷静だ。
 生きているものみたいに、飢えたことを知ったらすぐにそれを満たすものを探し始めたりは、しない。
 がむしゃらに、衝動によって求めるようなこともしない。

  

 僕のこの目の前に、いくつもの人間が闇の色へとあえいできた。
 足をとられて呑み込まれていく。
 今にも溺れそうでありがなら、しかし抜け出そうと手を伸ばすのではない。
 むしろその逆であって、自らその黒い渦巻きの中へ潜らんとしているのだ。
 なくなってしまったものを見つけ出すために。
 彼らは闇の中へと手をのばして、さまよい、そしてときには、その身体を抱いてただ苦しんできた。

 そして僕はその色をよく知っていた。
 

 僕よりもずっと無力であるはずの人間へと立ちはだかる闇のことを、僕までもが、知っていた。







 加納マルタンのカラダはひどく面倒にできている。
 まず人間のそれであるから、一定の水分や栄養などを摂取できなければあっという間にもたなくなってしまう。
 だからマルタン、『僕』は、飲んで食べるという行為に時間を使うことになる。少なくともしばらくは動けるように頑張ってもらわないといけない。
 それなのにこのカラダめ、ひどく食が細いのだ。すこしばかり重たいものを入れただけでも、受け付けられないのだろうか逆にふらついてしまう。
 小さいころの十代だってもっときちんと食べていたし、健康な子供だったように思うんだけれども。
 加納マルタンのカラダはひどく面倒にできている。
 実際に細身の小柄で、体力的にもそこまで優れているわけではない。

 けど、居心地はいいんだ。
 僕にぴったりの闇色を胸の奥底にまで抱きこんでいる。とても、しっくりと馴染んでくれる。
 決して間違った選択をしたわけじゃない。
 じっと目をつぶっていても、いっぱいに食べ物をいれてみても、どこかでは満たされることのない身体。僕がこうして入り込むことのできる肉体。
 いま、その中身にはこうして僕が君臨している。
 だから僕は例えばぜんまいを巻くかのように、少なくとも必要な分だけは満たしておいてやらないとならないのだ。
 それでもなお、このカラダに刻み込まれたままである本当の意味での空腹は、むしろ僕のことを救ってくれる。どうしてだって、闇色はそこにこそ詰め込まれているのだから。

 すぐに飢え疲れ、もろく柔らかで傷つき易いカラダ。
 小さな頃の十代にしても、何かとあってはぶつけたりをして擦り傷をつくってはいたものだ。
 人間のからだ。
 人間。
 人間。
 それは、それは果たしてどんなものだったっけ。


 栄養という動力がなくなれば苛立って喋らないようになる。
 掻き傷のひとつがついたって弱り切って動けなくなってしまう。
 ああ、いったい機械仕掛けの人形となにが違うっていうんだ。






 体内の回路へ記憶されたキロクをたよりに、流れていく感情の電流を確かめながら、理性という名のスイッチに手をあてて調節していくそれだけじゃないか。
 十代。十代、君は本当にそのキロクの中から、僕のことを失ってしまったのかい。
 君の中に火花を散らして流れていくその冷徹、悲しみ、苦痛、怒り、憎しみ、うたがい、喜び、いくつもを共有してきたキロクの、すべて。
 『僕』を。
 本当に、すべて取り払ってしまったの。

 僕がいないのだったらほかだっていらない。
 君の中に刻まれたデータのすべて、僕の知らない、残された何もかも必要であるはずがない。
 いらないじゃないか。『僕』のことを欠損してしまったデータファイルなんて。
 そんなバグを認めてしまうたとえば世界のことわり、それだっていらない。
 いらない、いらない、いらない。
 すべてなくなってしまったって構わない。
 そうして『僕』を欠いた君などというものも。

 ユベル。

 ちがうちがう、違う、君は僕の知っている十代、じゃない。
 名前を呼ぶな。だって君は破損したデータファイルなんだ、きっと不完全なんだ、あんなにたくさんのキロクを共有してきた僕のことを消去してしまっているのだとしたら。
 そんな選択肢を抜き出したのは果たして君の手だったのかい。僕が君を消去できないものだから、君が僕を消去したのかな。
 それが理性だっていうのなら、そんなものはバグだ。
 そんなものが備わっているから君は僕をなくしてしまった。

 だから十代、いっそ君なんていなくなってしまっても。


 ちがう、ちがう。
 だめだ、いやだ。
 ちがう。
 十代、僕は君を、君を消去したいわけじゃないんだよ。
 それなのに君が僕を消去してしまった。どこかへやってしまったんだ。
 消えていったものはきっと戻ってこないんだよ。消してしまった線をなぞってみても、それはもうまったく別の道なんだろう。
 君のもっていた冷徹、悲しみ、苦痛、怒り、憎しみ、うたがい、喜び、それら愛と名のつくすべて、何もかも。何もかも僕というキロクとともにあったはずなのに、スイッチひとつで洗い流してしまったんだね。
 そうして、それらは僕ではないどこかへと向けられるようになるんだ。
 消去されてしまった僕だけを今度は置き去りにして。
 僕にはこんなにも君が尊くて、消し去ることだってかなわなくて、くるしいんだよ。かなしいんだよ。はらただしいんだ。にくいんだ。
 それでも僕は君の愛を疑ったりしない。疑うことなんて決してできやしない。だってきみは僕とのキロクを消し去ってしまったのだから、もうここにないのだから、そんなものを疑えるはずもないね。

 だからちがうんだ、十代。僕は君を失いたいわけではないんだよ。
 それでも君は僕をなくしてしまったんだ。
 戻れない道ならば、僕だって君を消し去るしかない。けれども、もし君が本当にほんものの十代であるのなら、僕には君だけを塗りつぶしてしまうことなんて出来ない。
 そんなことをするぐらいだったら世界なんていらない。
 すべてクラッシュさせてしまうべきだ。
 どうせ僕の隣にいた『十代』のことは、君がその手で消去してしまったんだもの。

 だめだ、だめ。
 僕は君を失いたくない。
 十代。いっしょにいるって約束したじゃないか。
 君を守るって、ずっとずっと守り続けるんだって誓ったんだよ。かわりに僕は君からの愛を受け、それで飢えることもなかった。
 君の愛は僕のものであって、僕のいのちは君のものだった。
 僕はひとときだって消し去ったことなんかなかったんだ。十代。




 十代。



 十代、あの人形の髪の毛の色、なんだか君に似ていたね。
 人形はときどきだけれども、精霊よりも幾らか人間という存在に近いみたいだ。
 人間の手が作ったものだからなのかな。

 じゃあユベルは、あの人形に名前をつけるのなら、ぼくのをつけたらいいと思う?


 つけないよ。
 だって十代はここにしかいないもの。




 どれだけおもっても、十代、君の存在はここにしかないんだもの。
 かつてには何よりも近かったはずの場所。








 十代。
 どうして人間は、機械人形のようにはいかないのだろうね。
 もし僕と君の培ってきたものすべてがプログラムであったとしたら、なぞりあげるだけでも元の形になってくれたかもしれない。
 十代。
 そうはいかないから、だから僕には君の消し去ってしまったものを取り戻す手だてがないんだよ。
 だって君とのキロクはカタチとしてそれだけで表せるようなものではないんだもの。
 十代。
 本能のどこかで、ほんの片隅のかけらだけでも、僕のことを残しておいていてくれたのかな。
 君は僕の名前を思い出してくれたんだから。
 十代。
 僕は、君の理性にかなわなかったのかい。
 抑えてしまわなければならないものだったの。
 調節することだなんてできやしなくって、隠してしまうほかなかったのかな。
 だから君は僕のことを『忘れて』しまおうとしたのかな。

 人間は『忘れる』ことをするけれども、思い出すことをするけれども、消し去る、ことはしないでいるのだろうか。
 本当は。
 それなら僕は君の内に『ある』はずのものを今から書き足すことができるわけでもなく、取り戻したいのだったら、それが『ある』場所を探して引っ張りださなくてはならない。
 けれどね十代、どうしたらいいか解らないんだよ。
 せめて君の中身が回路みたいになっていてくれたらね。いらないものを消去して、作り直すことだってできるのかもしれない。
 けれども、そうはいかないみたいだ。

 君は間違いなく僕が知っている、同じものを作り出すことなんで出来るはずのない、たったひとりの。








 どうか、ぼくのぜんまいを巻いてください。
 ぼくに巻くことのできるぜんまいが付いているのかどうかは、わからないのですが。
 僕のおなかのあたりには、目に見えない穴がぽっかりとあいてしまっているのです。
 なのにそこから何も出ていってくれない。たいせつなものをなくしたのに、そのほかをなくすことは、できない。
 どうか、ぼくのぜんまいを巻いてください。
 いつしかみずからでの巻き方を忘れてしまっていました。
 どんな風に満たされていたのかを、忘れることができません。

 君がそこにいるのだということを、消し去ってしまうことができません。





 きみにかわる人形をつくれない。
 瞳へいれるきみのような涙も、
 つなぎめに通すきみのぬくもりも、
 おもうだけでは現すことができないから。



 本当はそんなことをしなくたって、君は今やそこに、僕の知っている場所にいるんだ。
 それでは君の中にいた僕は、いったいどこへと沈んでいってしまったのだろう。









 借り物の心臓がすすんで鼓動を早めようとしている。
 いけない。
 これから甘やかな愛によって包み込みに向かおうというのに、はやまって呑み込まれてしまうようでは、ならない。
 だからもう、こんなにか弱いカラダは役目から外してあげることにしよう。
 よく頑張ってくれたさ。

 あとには正しく傷を交わすべき、そのためのうつわを用意しなくては。



 遠回りをさせられはしたけれども、刻一刻と整っていく。
 これでようやく、また君と愛し合うことができるね。

 はやく、はやくこちらへおいで。

 








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